「世界」という「空間」をつくる「仕事」——山本理顕論

 

  • 『都市美』臨時増刊号 「特集 山本理顕とは何者か?」 地域社会圏研究所 2025年1月21日/
  • 「世界」という「空間」をつくる「仕事」——山本理顕論
    日本の第一線で活躍する建築家の中で,最も「正統的」なのが山本理顕である。「正統的」な建築家とは,日本の「戦後建築(近代建築)」の初心を真摯に継承する建築家という意味である。「邑楽町役場庁舎」「小田原市市民ホール」「天草市市庁舎」をめぐって,コンペ(設計競技)で設計者に選定されながら設計業務契約を解除されたことに対して「建築家」の社会的存在証明(レゾンデートル)をかけて裁判を起こす,そんな真摯な建築家が山本理顕である。建築家が日常的に遭遇する様々なトラブルに対してその都度「事を構える」のは多大なエネルギーを要するし,マイナスが大きい。スターアーキテクトでも,仕事の機会を失うリスクを考えて,クライアントの理不尽,不条理に黙して耐えるのが通常の選択である。
    しかし,山本理顕は常に敢然と闘う。「制度」=施設=インスティチューションを如何に超えるか,ステレオタイプ化した空間を支えるシステムに対して,常に異を唱える。「戦後建築」の初心を最も真摯に受け止め継承する建築家とは,そういう意味であって,しかも「戦後建築」も既に異議申し立ての対象である。山本理顕はその最前線にいる。
    地味かもしれない。「奇を衒う」ところがなく,「アート」を標榜することもない。真正面から「建築」に取り組む「理論家」である。「現実派」「社会派」といっていいが,「理想家」あるいは「ラショナリスト」と言っていいかもしれない。「社会の中の建築」,「建築の中の社会」のあり方についてのラディカルな問いが思考の原点にある。日本の現実の中で、山本理顕同様、真摯に「建築」と格闘する建築家たちの支持は絶大である。山本理顕の「2024年プリツカー賞」受賞は,そうした建築家たちに大きな勇気を与えることになった[1]
     
    Ⅰ 「制度」と闘う建築家-山本理顕の軌跡
     
    雛芥子
    山本理顕と最初に出会ったのは,当時六本木にあった東京大学生産技術研究所の原広司研究室においてである。外国人建築家を案内して原研究室を「雛芥子」の仲間[2]と訪れたのだが,アポイントはとっていなかった。突然の訪問に,一人で研究室で図面を描いていた山本理顕は,驚き戸惑いながら僕らに応対してくれた。当時,「雛芥子」の仲間は修士課程に在学していたから1972年から74年の間だ。山本理顕は,東京芸術大学の修士論文のエッセンスを1970年に「住居シミュレーション」(『都市住宅』1970年4月)として発表している。1973年に「領域論試論」(『住居集合論Ⅰ』『SD』別冊,1973年3月)を書いているから,原研究室の「地中海周辺」をめぐる世界集落調査の第一回を終えてそのまとめの最中だったと思う。
    この最初の出会いをきっかけに,原広司が開催した自主ゼミ,宮内康を中心とする「同時代建築研究会」[3]などを通じて,僕は,山本理顕と親しく接してきた。東洋大では,設計演習の非常勤講師を頼んで毎週のように会っていた。年間を通した即日設計の科目(設計演習ⅡA)で,一週目に課題を出し,二週目にその講評を行うという形式であった。課題を出し,次の課題を決めると,建築界をめぐって果てしなく議論した。山本理顕は,「山川山荘」(1977)などでデビューしていたものの,ほとんど無名であり,採点の間に,GAZEBO(1986)(四周に壁のない屋根だけの東屋、パビリオンの意)のスケッチを描いていたのを覚えている。京大時代にも非常勤講師として2年来てもらった(2000~2001)。滋賀県立大学でも,学生たちに「建築をつくることは未来をつくること」と熱く語ってくれた(2007)[4]。そして,現在は,『都市美』(2019年創刊)の編集を一緒に行っている。
     
    横浜
    北京生まれで,横浜育ちである。「モダンリビングには程遠いでたらめな家に住んでいた。家族構成もユニークだった。父親がいない代わりに,祖母と叔母が同居して,さらにその叔母に軽い障害があったりしたものだから,普通の家族の生活に比べればかなりユニークだったと言っていいと思う。」(『新編・住居論』「あとがき」平凡社,2004)と書いている。この家族構成が家族と住居の関係を執拗に問う山本理顕の原点にあることは疑いがない。
    父親は,通信関係の技師であったと聞いたけれど,その生い立ちについては詳しく聞いたことがない。ただ,横浜への拘りは強い。「GAZEBO」(1986)は実家であり,1973年の山本理顕設計工場の設立以来,槇文彦(1928~2024)(文化功労者、日本芸術院会員、プリツカー賞受賞(1993))が設計した代官山の「ヒルサイドテラス」(1969~1999、日本芸術大賞(1980))に置いていた事務所も,移転しながら横浜に移している(1997)。さらに,2021年にはGAZEBO近くに地域社会圏研究所(一般社団法人)とともに本拠地を構えた。
    山本理顕は,数々の大学で非常勤講師を務めてきたが,還暦を前にして工学院大学の常勤の教授に招かれる(2002~2007)。そして,Y-GSA(横浜国立大学大学院・建築都市スクール)の初代校長に就任する(2007~2011,客員教授2011~2013)。横浜生まれで,横浜を拠点とする山本理顕にとって,その後の活動にとって最高のポジションを得たことになる。
     
    梁山泊
    山本理顕は,1968年に日本大学理工学部建築学科を卒業後,東京藝術大学の修士課程に入学,修了後,原研究室の研究生になった(1971)。なぜ,原広司研究室だったのか。当時,磯崎新(1931~2023)40歳,原広司(1936~)35歳,二人は,建築を学び始めた学生,若い建築家たちの憧れの存在であり,磯崎の『空間へ』(1971)そして原の『建築に何が可能か』(1967),そして宮内康(1937~1992)の『怨恨のユートピア』(1971)は必読書だったのである。
    「全共闘運動」は,1967年の早稲田大学の学費値上げ反対闘争,そして翌年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争,東京大学の医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分への抗議運動などを前史とし,日本大学の20億円の使途不明金問題をきっかけに全国に広がった。日本大学では,古田重二良会頭を頂点とした権威主義的な体制への不満が爆発し,1968年5月23日に初めてのデモが行われ,5月27日には秋田明大(1947~。『大学占拠の思想』(編著,1969)『獄中記 異常の日常化の中で』(1969))を議長として日大全共闘が結成された。秋田明大は,山本理顕の一年後輩である。建築学科の同学年には,都市梱包工房の入之内瑛(1946~2024。1972年建築計画研究所都市梱包工房設立),前川國男建築設計事務所の代表取締役を務める橋本功(1945~。1970年前川國男建築設計事務所入所。代表取締役(2000~))らがいた。
     磯崎新は,繰り返し「1968年」について語っている。
    「私は年齢的には1960年世代だけど,建築家としての思考のしかたは1968年に属している」という[5]。磯崎新の思考の根底には,一貫して,「既成のもの」「旧体制」「旧制度」「エスタブリッシュメント」に対する「反」がある。「反建築史」「反回想」「反建築的ノート」・・・著書やエッセイのタイトルにも「反」が用いられる。「違反」「異議申し立て」「解体」「革命」「前衛」といった言葉が好んで使われる。山本理顕は,明らかに,磯崎新の「反」を引き継いできたように思える。
    1968年に大学に入学した僕らの世代にとって最も親しい言葉は,「異議申し立て」であり,「反」「叛」であり,「造反有理」であり,「自己否定」である。磯崎新の書くものに「全共闘世代」が共感し,共鳴したのは,その思考の根底において通底するものがあったからである。当時,既成の制度に異を唱える集団として,あらゆるところに梁山泊があり,無数の出会いがあった。
    やや時代は下るが,僕は,1970年代末から1980年代にかけて,頻繁に入之内瑛,橋本功の二人と会う機会があった。いささか苦い想い出がある。宮内嘉久(1926~2009。建築評論家,編集ジャーナリスト。『少数派建築論』『廃墟から 反建築論』『建築・都市論異見』『建築ジャーナリズム無頼』『前川國男 賊軍の将』など)に声をかけられ,『風声』『燎火』を引き継ぐ新たな建築メディア『地平線』(仮称)を出版しようということで編集委員会(入之内瑛,橋本功,永田祐三(1941~。1965年竹中工務店。1985年永田・北野建築研究所設立。2007年永田建築研究所。「ホテル川久」(1993,第6回村野藤吾賞受賞)),藤原千春,小柳津醇)で議論を重ねていたのである。経緯は省くが[6],決裂することになった。個人的な総括として,創刊に加わったのが『群居』[7]である。山本理顕が『都市美』を創刊したのは,上述のように2019年である。
     
    上野の森
    東京芸大大学院では山本学治研究室に属した。当時,その周辺には錚々たるメンバーが蝟集していた。東京芸大の美術学部には,現在アート・ディレクターとして活躍する北川フラム(1946~。東京芸術大学美術学部仏教彫刻史専攻。1971年「ゆりあ・ぺむぺる工房」設立。1977年「現代企画室」設立。「アートフロントギャラリー」開設(1982)。「ファーレ立川」(1994)「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(2000~)。「瀬戸内国際芸術祭」(2010~)。芸術選奨文部科学大臣賞(2007)紫綬褒章(2016)文化功労者(2018)。)がいた。北川フラムの姉北川若菜は原広司夫人である。
    井出建(1945~2022),松山巌(1945~)(『乱歩と東京』(1984)で日本推理作家協会賞。『闇の中の石』(1996)で伊藤整文学賞。『群集―機械のなかの難民』(1997)で読売文学賞。),元倉真琴(1946~2017)(1971~76年槇総合事務所。1980年、飯田善彦(1950~)とスタジオ建築計画設立。東北芸術工科大学教授(1998~2008)。東京藝術大学美術学部建築科教授(2008~2012)。熊本県営住宅竜蛇平団地(1993,1995年日本建築学会賞))らで結成されたグループ「コンペイトウ」[8]が山本理顕の同世代である。「コンペイトウ」は武蔵野美術大学の「遺留品研究所」(真壁智治,大竹誠・・・),東京大学の「ランディウム」(石井和紘(1944~2015。「数奇屋邑」日本建築学会賞(1989))・・・)などとともに,数歳年下の僕らには有名であった。『建築年鑑』(1968,宮内嘉久編集事務所)の後頁に集められた当時の若者たちを集めた「僕自身のための広告」にその群像を見ることができる。
    「コンペイトウ」の井出健,松山巌とは『TAU』[9]で出会った。この二人と「雛芥子」は研究会を何回か続けた。フランス語が堪能な三宅理一のリードで、フランス革命期の建築家、ルドゥー、ブーレー、ルクらの原書を読んだ。そして,元倉真琴と出会ったのは槇総合計画事務所においてである。僕は大学院の頃,夏休みのひと月,一年先輩の初見学に連れられて,槇事務所でアルバイトをした。そこで元倉真琴に出会ったのである。不思議な縁である。
    元倉真琴と山本理顕はヒルサイドテラスの最下階で事務所スペース(フィールドショップ)を共有することになる。
     
    原広司研究室
    原広司が東洋大学を経て,池辺陽(1920~1979)(1942年東京帝国大学工学部建築学科卒業。1944年板倉建築研究所入社。1946年東京帝国大学第二工学部講師。1947年新日本建築家集団NAU創立に参加。1949年東京帝国大学助教授。1965年東京大学生産技術研究所教授。)に招かれて東大生産技術研究所に助教授として戻ったのが1969年,「東大闘争」の真最中であった。『建築に何が可能か』(1967)は,「雛芥子」の仲間と本郷の製図室の読書会で読んだ。M.ポンティの『知覚の現象学』も続いて読んだが,同じくらい難解であった。しかし,「建築に何が可能か」という問いは,「全てが建築である」(H.ホライン(1934~2014))というスローガンとともに,建築を学ぶ学生たちをわくわくさせた。RAS設計同人[10]によるものも含めて「伊藤邸」(1966)「慶松幼稚園」(1968) など少なからぬ作品が知られており,その「有孔体」理論は実に魅力的であった。
    結果的に,山本理顕は原広司の一番弟子となる。一足先に原研究室に入った入之内瑛とともに東大の原研究室を立ち上げたのが山本理顕といっていい。東洋大時代の原研究室の面々にはアトリエ・ファイを支えることになる小川朝明,また山谷明などがいる。原研究室からは,宇野求隈研吾竹山聖小嶋一浩曲渕英邦今井公太郎太田浩史南泰裕槻橋修などが次々に育つことになる。
    「雛芥子」主催のシンポジウムで原広司と「雛芥子」は直接知り合い,原広司の呼びかけで自主ゼミを始める。原広司の周辺もまた,北川フラム率いる「アートフロント」を交えて一つの梁山泊であった。渋谷の桜丘にアートフロントが経営する傘屋という居酒屋があって夜な夜な集った。少しして古谷誠章(1955~。「茅野市民館」(2007)日本建築学会賞。日本建築学会会長(2017~18))など少し若い世代も研究会に加わる。「雛芥子」が大学院に進んだ頃,東大と東京工業大学は単位互換の制度をもっており,原広司研究室と篠原一男研究室は交流があった。当時,長谷川逸子(1941~)(長谷川逸子・建築計画工房設立(1979)。「眉山ホール」(1986、日本建築学会賞、現存せず)「湘南台文化センター」(1989)「山梨フルーツミュージアム」(1995)など)は篠原研究室の研究生で,時々顔を合わせた。
    僕が修士2年生の時,指導教官であった吉武泰水が定年を前にして(57歳)突然筑波大に転勤する「事件!?」が起こる。原研究室に来ないかと誘われたが,僕の方に「本郷」を動けない事情があった。「雛芥子」の仲間の何人かは日本を離れ(海外留学),また就職し,僕は,原広司の長野県飯田高校の後輩でRAS設計同人でもあった宮内康が主催する「AURA設計工房」というもうひとつの梁山泊に出入りすることになる。
     
    世界集落調査
     原広司研究室の「世界集落調査」は,1970年代を通じて,「地中海」「中南米」「東欧・中東」「インド・ネパール」「西アフリカ」[11]と5回行われる。山本理顕は,「地中海」「中南米」「インド・ネパール」に参加し,「領域論試論」「閾論Ⅰ」「閾論Ⅱ」の3本の論文を書いている。いずれも『住居論』に収録しているが,その住居論の大きな基礎になっているのが,世界集落調査であることは自らしばしば触れるところである。
    この世界集落調査が原広司をはじめ竹山聖など参加メンバーにとっても大きな糧になっていることも明らかである。『建築に何が可能か』以降,原広司の著作は決して多くはない。最も重要な建築論集は『空間<機能から様相へ>』(1987)である。まとまった形で書かれたものに『集落への旅』(1987)があり,『集落の教え100』(1998)がある。原広司は,1970年代には「粟津潔邸」(1972)「自邸」(1974) 「松欅堂」(1979)などの住宅作品以外の設計を行っていない。2度のオイルショックを経験した1970年代はほんとに仕事が無かった。「住居に都市を埋蔵する」という方法意識は,若い建築家たちが心底共有するところだったのである。
    原研究室の「世界集落調査」は,神代雄一郎(1922~2000),宮脇檀(1936~1998)らが先鞭をつけた「デザイン・サーヴェイ」の延長,すなわち,B.ルドフスキーの「建築家なしの建築」の発見以降の流れに属すと見ることが出来るが,国境を軽々と超え,広大な世界を疾風のように駆け抜けることにおいて,日本の建築界に全く新たな視座をもたらすものとなった。
    僕がアジアを歩き始めたのは,1978年に原広司がかつて在職した東洋大に職を得てからである。1979年の1月から2月にかけてインドネシア,タイに出かけた。そして,続いて8月,原研究室に在籍していた宇野求とフィリピンとマレーシアへ行ったのがアジア研究の出発点である。前田尚美,大田邦夫,上杉啓,内田雄造(1942~2011)といったメンバーと一緒に「東洋における居住問題に関する理論的実証的研究」という研究プロジェクトを始めることになったのが直接のきっかけであるが,原研究室の「世界集落調査」が大きな刺激になっていた。建築学界全体に大きな影響を及ぼしたことは,僕自身が日本建築学会の研究協議会としてオルガナイズした「住居集落研究の方法と課題:異文化の理解をめぐって」[12]が示している。
     
    雑居ビルの上の住居 GAZEBO
    山本理顕は,1973年に「山本理顕設計工場」を設立する。デビュー作と言っていい「山川山荘」が竣工するのは1977年である。建築家修業と世界集落調査は重なっていることになる。実際は,「山川山荘」に先立つ作品として「三平邸」(横浜市金沢区,1976)がある。この作品について,山本理顕は,次のように書いている(「設計作業日誌77/88―私的建築計画学として―」,「特集/山本理顕的建築計画学77/88」『建築文化』,彰国社,1988年8月)。
    「とにかく,はじめてのことばかりで,何も知らないままつくった建物である。大体,私は大学院を出たあと,すぐ原研究室に行って,そのまま事務所だあ,と勝手に一人で始めてしまったものだから実務経験がなんにもない。恐ろしいことにそれで設計してしまったのである。だから,このアトリエには断熱材が入っていない。知らなかったのである。・・・実務体験なんて,と思っていた。そんなものいくら積んだところで,所詮,行き着くところは知れている。建築の中心的課題とは,無関係なものじゃないかという気分だった。建築は具体的なものとしてある以前に,まず,思考の対象としてあった。ちょうど原研究室の第一回目の集落調査から帰ってきたばかりということもあって,平面図に表れるような空間の配列だと思っていたのである。どうも私の頭の中では徹底的に抽象化されていたらしいのである。」
    「山川山荘」から「GAZEBO」(1986)で日本建築学会賞(1988)を受賞するまで,山本理顕は,「窪田邸」(1978),「山本邸」(1978),「藤井邸」(1982)など住宅を中心とした設計を細々と続けている。
    この間,そう忙しくなかったのは証言できる。上述のように,東洋大学で設計製図の非常勤として,毎週川越まで来てもらっていたのである。僕は,専ら即日設計を担当していて,山本理顕以外にも,毛綱毅曠,元倉真琴,宇野求らにも交替で来てもらった。2週間で1課題,即日設計をしたものを次の週に徹底したジュリーを行う。最初の週は課題を出せば暇と言えば暇で,昼飯は近くの蕎麦屋で日本の建築についてしゃべった。実に楽しかった。そして,課題を考えるのが刺激的だった。
    そのストックは数十あるが,傑作が「都市に寄生せよ」[13]であり,「愛人が同居する家」(「逆噴射家族」)である。「愛人が同居する家」については,山本理顕が「住宅擬態論」[14]の中で詳しく書いている。講演にやってきた六角鬼丈が「なんだ!この課題は?」と首を捻っていたことを思い出す。ある種の思考実験といっていいが,現実的諸条件のひとつだけ外してしまうと,著しく建築的想像力は刺激され解放される。「突然土地が50m隆起したとする」「渋谷の駅前に二坪程の土地が手に入ったとする」「パンテオンを地下に埋めて核シェルターとする」・・・次々に二人で課題を考えた[15]
    そうした課題を学生に与えながら,「そろそろ設計しなきゃ」といってエスキスしていたのが,日本建築学会賞を最初に受賞する(1987)「雑居ビルの上の住居」すなわち「GAZEBO」であり,「ROTUNDA」(1987)である。そして続いて「HAMLET」(1988)が竣工して,初期作品の集大成である『特集・山本理顕的計画学77/88』(『建築文化』,1988年8月)がまとめられ,その評価が定まることになる。
     
    公共建築コンペへ
     日本建築学会賞を契機に公共建築の設計への道が開かれるのは,山本理顕の場合も同じである。次の飛躍の大きなきっかけとなるのが「熊本県営保田窪第一団地」(1988~1991)である。一方,「名護市庁舎」(1978)「駒ヶ根市文化公園」(1984)「日仏文化会館」(1990)「川里村ふるさと館」(1990)「加茂町文化ホール」(1992)「埼玉県立近代文学館」(1993)「熊谷市第二文化センター」(1994)と設計競技への応募も活発化する。
     「熊本県営保田窪第一団地」,「岡山の住宅」(1989)以降,「緑園都市」(1992~94)「東雲キャナルコートCODAN」(2003)へ,計画住宅団地の設計の機会も訪れた。
    「熊本県営保田窪第一団地」は,新聞やテレビを巻き込んで大きな反響を巻き起こした。「外部を通過して部屋相互が結びつけられている」プランニングに居住者はとまどった。居住者のみがアクセスできる中央広場(コモン)のあり方に建築家の横暴だという非難が寄せられたのである。「デザインのために生活が犠牲にされている」という紋切り型の批判が大勢であった。しかし,少なくとも建築界では建築家の本来なすべき試みとして受け止められた。以降,公共建築を設計する機会に恵まれるようになる。
    「岩出山中学校」(1996)のコンペに勝ったのが次のステップになる(1998年毎日芸術賞)。そして,「埼玉県立大学」(1999)によって,その地位を確固たるものとする(2001年日本芸術院賞)。「公立はこだて未来大学」(2000)で,木村俊彦とともに二度目の日本建築学会賞作品賞を受ける(2002)。この時,僕は審査委員のひとりであった。
    中学校,大学という施設についても,山本理顕のアプローチは変わらない。すなわち,施設=制度(インスティチューション )と空間の関係を徹底して問う姿勢は一貫している。
    海外での仕事はこれまで少ない。「建外(Jian Wai)SOHO」(2003)が最初で,生地北京というのも縁であろうか。その後,韓国城南市の「パンギョ・ハウジング」(2010),天津図書館(2012),ソウル江南ハウジング(2014),そして「ザ・サークルーチューリッヒ国際空港」(2020)が続くことになる。
    「岩出山中学校」以降,コンペの勝率は相当高かった。その鋭い提起が日本の社会の根を的確に突いていたことを示している。しかし,その方向性に大きく立ちはだかったのが「邑楽町役場庁舎」(2005)をめぐる問題である。また,小田原の「城下町ホール(小田原市市民ホール)」(2007)をめぐる問題である。さらに,「天草市本庁舎」(2013)も,プロポーサルで最優秀賞を受賞したが,市長の交代などを理由に解約されることになった。
     
    Ⅱ 家族のかたちと社会のかたち-山本理顕の建築論
    山本理顕が執拗に問い続けてきたのは,家族のかたちと住居のかたちである。あるいは社会的な制度と空間の形式である。この建築家にとっての原初的な問いは,デビュー作である「山川山荘」以降一貫し,「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」を経て「熊本県営保田窪団地」「岡山の住宅」,そして「東雲キャナルコートCODAN」まで住居に即してつきつめられ,学校,大学,役場など公共建築へその問いを広げてきた。
     山本理顕の建築家としての基本的構えは,空間の型と生活の型の対応を問うてきた建築計画学のそれと極めて近い。山本理顕が初期の作品をまとめる最初の雑誌特集を『山本理顕的建築計画学77/88』と題したのは,彼自身「建築計画学」を意識していたからである。その後,「51C」をめぐって『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(2001)が編まれるのもベースが共有されていることを示している。僕が,当初から山本理顕にシンパシーを持ち続けてきたのは,建築計画(吉武泰水・鈴木成文)研究室を出自とするからでもある。
     山本理顕には,いわゆる建築論あるいは建築家論がない。近代建築の巨匠たちや歴史的な傑作,同世代の建築家についてのまとまった論考はない。また,一般的にいう表現論,技術論の展開もほとんどない。そうした意味では特異な建築家といえるかもしれない。論考の大半は,住居論である。しかし,その住居論は,建築論,都市論へとそのまま接続される同相の構造を持っている。
    住居論の中核となる,『住居論』(1993)を含む『新編 住居論』(2004)と『建築の可能性,山本理顕的想像力』(2006)の二冊を中心にその骨格,基本概念をみよう。
      
    「領域」「閾」「ルーフ」
    山本理顕の出発点は,「世界集落調査」に基づく「住居集合論」である。そして,それ以前に,自ら「発端であった」という修士論文をもとにした「住居シミュレーション」モデルがある(『新編 住居論』「はじめに」)。山本には,当初から住居という誰にとっても身近な空間の配列を執拗に問いつめる基本的視座があり,一貫している。前述のように,その出自としての家族関係(育った家族,住居)と世の中で標準と考えられている(教えられる)家族のかたちと住居のかたちとのギャップが思考の原点にあるのだと思う。
    原広司の場合,住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに専ら関心があり,一方で,最低限,集落調査における発見を様々なレベルで表現あるいは設計手法に直結(還元)する構えがある。なぜ,原広司が「世界集落調査」へ向かったか,いくつか推測できるけれど,定かではない。風のように集落を駆け抜ける調査の学術的意味については随分違和感も持ったし,議論もした。僕のアジア都市研究(都市組織Urban Tissues研究,都市型住宅研究)はその議論の延長上にある。
    山本理顕は,徹底して原理的である。「領域論試論」(『SD』別冊6)は,3つの集落(住居集合)の型を区別する。「ペトレス型」「クエバス型」「メディナ型」という3類型は,住居と住居集合における領域の「明快/不明快」という概念的分類に過ぎないが,実際に調査した集落を分類していることにおいて単なる図式的類型論ではない。3つの住居集合のかたちは実際あり得るのである。
    この論文で「領域」という概念とともに「閾(しきい)threshold」という概念が提出され,それをつきつめるのが「閾論Ⅰ」「閾論Ⅱ」である。山本理顕の住居論の中心はこの「閾」論である。
    「閾」とは,日常語では「敷居」「入口」のことである。「領域」と「領域」の「境界」が「閾」である。「領域」とは,何らかの特性を内包する空間であり,「境界」によって閉ざされている「場」である。特性とは「集団」の統一性のことであり,ひとつの「領域」にはただひとつの集団の統一性が実現されている。ひとつの「領域」に複数の集団の統一性を実現することはできない。
    以上のように「領域」を規定すると,「ふたつ以上の「領域」が互いに交わって並立することはない」ことになる。しかし,集落(住居集合)がひとつの「領域」であり,個々の住居も「領域」である場合(ペトレス型集落),「互いに干渉しないで,なお「領域」相互の接触を可能にするような」「空間」「装置」が必要になる。それが「閾」である。「閾」とは,具体的な空間としては「ホワイエ」「風除室」「気密室」のような空間である。
    その論の多彩な拡がりをいささか損ねているのであるが,単純化すれば,論旨は以上のようだ。山本は,「閉じられた領域内の秩序を維持し,かつ外部と交流するための空間装置」=「閾」を「仕掛け」と捉える。また,「閾論Ⅱ」は「<ルーフ>に関する考察」と題されるが,「機能を超えた,家族,親族,血縁集団といったスケールを捨象された」「単位」として,「閾によって秩序づけられた閉じた領域のすべてにあてはまる概念」として「ルーフ」という概念を提出し,より柔軟な概念モデルを練り上げている。閉じた領域のすべてにあてはまる「ルーフ」という概念の具体例として挙げられるのが,南インドの建築書「マーナサーラ」[16]の村落都市のパターンである[17]。住居,集落,都市をひとつの閉じた秩序として地域に住む人々の世界観=宇宙観の形象とみなす「マーナサーラ」の世界(「曼荼羅都市」の原理)と後に見る「イスラーム都市」の原理の対比は,山本理顕の領域論の鍵である。
     
    プロトタイプの脱構築
    「閾」論を基にした山本理顕的住居論の二つのテーゼは以下である。
    「家族という共同体は<共同体内共同体>である」。
    「住居という空間装置はそのふたつの共同体,家族という共同体とその上位の共同体が出会う場面を制御するための空間装置である」。
     この実に単純なテーゼ,原理と「世界集落調査」が明らかにする多様な住居集合のあり方を前提とすると,日本の住居はあまりにも画一的である。このおそろしいほどの画一性とそれを支える生活像,家族像についてのステレオタイプ化された幻想を鋭く告発するのが「住宅擬態論」(『室内』連載。1992年3,5,7,9月)である。そして,家族と住居の擬態について考えさせる設計課題が「愛人の同居する家」であり,「100人の住宅」である。また,実際の試作品,モデルとして建設されたのが「岡山の住宅」(1992)である。
    しかし,山本理顕は,「山川山荘」において,既に,ステレオタイプ化した住居の形式に対する批判を試みていた。夏しか使わない別荘という特殊な条件ではあるが,ひとつの住居形式の提示である。吹きさらしの板の間は朝鮮半島の「抹楼(マル)」(大庁(デーチョン))を想起させる。あるいは,安藤忠雄(1941~)(日本芸術院賞(1993)プリツカー賞(1995)高松宮殿下記念世界文化賞(1996)RIBAゴールドメダル(1997)AIAゴールドメダル(2002)文化功労者(2003)UIAゴールドメダル(2005)文化勲章(2010))の「住吉の長屋」(1976,1979日本建築学会賞)を思わせる。1970年代は,ポストモダン世代が相次いで住宅作品を発表した時代である。それは決して「狂い咲きの時代」(『住宅70年代・狂い咲き』エクスナレッジムック,2006)ではなく,日本の社会が新たな居住形式をもとめる地殻変動のひとつの表現であった。銘記すべきは,住居という身近な空間形式を徹底して問うことが「建築家」が「建築家」となる出発点であったということである。
    「山川山荘」とともに『新建築』(1978年8月)に発表された「新藤邸」「窪田邸」「石井邸」は一見バラバラである。渡辺豊和(1938~)(「竜神村体育館」日本建築学会賞(1987))に「精神分裂」と言われたという。また,伊東豊雄(1941~)(日本建築学会賞(1986、2003)日本芸術院賞(1999)ヴェツィア・ビエンナーレ金獅子賞(2002)RIBAゴールドメダル(2006)高松宮殿下記念世界文化賞(2010)プリツカー賞受賞(2013)日本建築学会大賞(2016)文化功労者(2018)芸術院会員(2022))も「相当見かけのスタイルが違う」という(『システムズ・ストラクチュアのディテール』(2001)。しかし,山本の「閾論」に基づけば,そう違和感はない。「形式としての住居」(『新建築』,1978年8月)としてのいくつかの解答としてありうるからである。山本理顕における「スタイル」の問題,「建築表現」の問題は後にみよう。徹底して,住宅の画一化,ステレオタイプ化を批判する山本理顕が他の建築家―例えば伊東豊雄―と一線を画すのは,単に批判に終始するのではなく,新たなプロトタイプを提示してみせるところにある。「<アーキタイプ>のない建築,それは私にとって「理想の建築」なのである」という伊東豊雄とも「未だみたことのない建築」をつくりたいという藤森照信とも違うのである。
    「雑居ビルの上の住居 GAZEBO」は,ひとつのプロトタイプの提示である。幹線道路沿いの商業地域において,如何に住居が成立するか,その形式についてのひとつの解答である。その試みは「住吉の長屋」に匹敵するといっていい。全ての空間が経済原則によって支配されるなかで(社会的総空間の商品化),「ただ最上階だけは渡さない」(「破産都市」)という覚悟がこのモデルにこめられている。
    そして,戸建て住宅のモデルとして「岡山の住宅」が設計され,集合住宅モデルとして「保田窪団地」が設計された。山本理顕の住居へのアプローチが実に「正統的」であることは以上のように明らかである。
     
    細胞都市
     山本理顕の領域論がーまた「建築家」の多くがー前提とするのは,住居という空間単位の集合を拡大,重層していくことにおいて,集落,都市,世界が構成されるということである。土木の分野のように空間を支えるインフラストラクチャーを重視する立場からすると,まったく異なった組み立てとなるが,山本にとって,インフラストラクチャーも「閾」である。そして,「閾」論,「ルーフ」論は,スケールについては伸縮自在である。従って,その住居論は,建築論,都市論,・・・へ拡大可能である。また,そもそも山本理顕は都市への視座を持っている(『二〇〇六 徹底討論 私たちが住みたい都市』〈編著〉(2006)。
    横浜の「緑園都市」の商業地区計画は都市への展開の第一歩であった。そして,山本理顕が提示するのは,「細胞都市」という概念(『細胞都市』INAX,1993。『細胞都市』英語版(システム環境研究所),1999。『細胞都市』フランス語版(フランス建築家協会),1999)である。「細胞都市」という概念で具体的にモデルとされるのが「全体の計画が見えない」「アドリブ的」な「イスラーム都市」である(「細胞都市」『建築の可能性,山本理顕的想像力』王国社,所収,2006)。「イスラーム都市」は,「最終形に向かって徐々に向かって徐々に出来上がっていくような都市ではなく,その都度完成された都市」である。この「イスラーム都市」への関心も「世界集落調査」の第一回「地中海」に遡ることが出来る。山本は具体的な構成原理の詳細に触れることはないが,B.S.ハキームの『イスラーム都市-アラブの町づくりの原理』(佐藤次高監訳,第三書館)[18]が出版されるのははるかに後のことだから,「イスラーム都市」への着目はいち早い慧眼であった[19]
     「細胞都市」とは,「一つの建築が都市の因子であり細胞であるような」都市である。「都市細胞」としての建築は,「一つの建築であると同時に,都市への増殖の契機をその内側に持っている建築」である。
     「全体の計画をまずつくって,その計画に従って個々の建築を制約していく方法ではなく,つまり都市という全体のための部分品であるような建築をつくるのではなく,・・・建築が次から次と連続してゆくときの,その連続のための因子を,自分の中に持っているような建築が考えられればいい」というのが,「緑園都市」の方法である。
     しかし,「緑園都市」の場合,「因子」というのは実に単純である。全ての建物に,隣接する建物に通り抜けできる道をつくる,というのが「連続のための因子」なのである。「通り抜けの道」を個々の建築に用意すればいい,ということではもちろんない。「イスラーム都市」の原理は,もう少し豊かな空間を生み出す仕掛けを持っている。
     
    職寝一体 SOHO
     「熊本県営保田窪団地」「緑園都市」の経験を経て,「東雲キャナルコートCODAN」(2003)の機会が与えられる。それを機会に「建外SOHO」(北京)の設計というチャンスを得る。海外(異文化)における設計は,「閾論」の普遍性を試す絶好の機会ともなる。天津の「伴山人家」(2005)「アムステルダムの集合住宅」(2008)は,実現しないが,「パンギョ・ハウジング」(2010)が続いた。
     しかし,もちろん,理論と現実は異なる。理念がそのまま実現するとは限らないのがむしろ一般的である。「緑園都市」の場合,「通り抜けの道」を因子としてセットするのが精一杯だったとも言えるのである。
     「東雲キャナルコートCODAN」は,都市基盤整備公団(現都市再生機構)のプロジェクトである。前身は日本住宅公団であり,日本の戦後住宅のプロトタイプを供給してきた日本最大の公的住宅供給機関である。その歴史的,社会的役割についてはここでは略すが,山本理顕など著名な建築家グループに白羽の矢が当たる必然性があったことは間違いない。半世紀の歴史を経て,その住居モデルが社会のニーズとずれてしまっていることは明らかだからである。
     山本理顕は,「洗面所や浴室のようなウォーターセクションと台所を窓側に寄せる」アイディアを試したかったという。そうすることによって,実際にはオフィスのように使ったり,仲間同士でシェアして大きなユニットに住んだり,多様な住まい方が可能になると考えた。民間の分譲マンションを依頼されて提案したけれど,実現しなかった。「分譲住宅として一般性にかける」,すなわち「分譲住宅は住まいというよりも一種の資産として購入するわけだから,誰にとっても過不足がないといったような一般性がないと売れない」とディベロッパーが考えたからである(「建築の社会性」,『JA 51  riken yamamoto 2003』,新建築社,2003年9月)。
     公団もディベロッパーであることに変わりはないが,賃貸住宅ということで社会的ニーズをより考慮できる余地はあった。また,公団としても,空家を出すわけにはいかない社会的プレッシャーがあった。
     7割をファミリータイプ,3割を提案型とした「東雲キャナルコートCODAN」は,平均倍率24倍という成功を収めた。成功の理由は,必ずしも「プラン」の型にあるわけではない。「職寝一体」「職住混在」がその主要な理由だと山本理顕は冷静に分析している(「「職寝一体」「職住混在」,『季刊デザイン』No.5,2003年10月)。
     山本理顕は「東雲」において何をなしえたのか。伊東豊雄,曽我部昌史との鼎談「東雲キャナルコートCODANを語る」(『新建築』2003年9月 )を読むと,悪戦苦闘の様がよくわかる。
     SOHO(Small Office/Home Office)という住まい方に対しては,住宅市場において「デザイナーズ・マンション」が既に対応してきたところである。「ちょっとおしゃれな」デザインというレベルはなく「職寝一体」のモデルというのが山本理顕であるが,「多少はできた」「道半ばだなあ」というのが自己総括である。
     
    「51C」批判!?
     「東雲キャナルコートCODAN」については,工事中の現場を見学する機会があった。現場は,鈴木成文率いる神戸芸術工科大学の学生たちをはじめ,ごった返しの大盛況であった。簡単なビアパーティもあって議論は弾み,その勢いで,新大塚の鈴木成文邸に雪崩れ込むことになり,朝まで飲んだ。気がつけば横浜であった。
     その日の議論がきっかけになって,シンポジウムが企画され,その議論は,『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』(平凡社,鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕他,2004)という本になった。その全てをしきったのが,鈴木先生の教え子で,鈴木宅で書生を務めたことのある田島喜美恵である。彼女は滋賀県立大学の僕の研究室の研究生になった後,大阪大学の博士課程に進学し,現在は明石工業専門学校で教鞭をとる。
     大きな焦点は,「51C」[20]の評価であり,もうひとつの焦点は,上野千鶴子(1948~)を急先鋒とする「建築家」=「空間帝国主義者」批判であった。
     その議論の全体は,『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』に委ねたい。そこで「「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―」という文章を書いた。結論部を引けば以下のようだ。
    「1979年に東南アジア諸国を歩き出して,強烈なインパクトを受けたのは,セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも,コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。
    コア・ハウス・プロジェクトとは,ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し,後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って,後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく,やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは,日本の戦後まもなくの「51C」であり,「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。
    その後,インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった(『カンポンの世界』, 1991)。結果として,コモンリビング,コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり,並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。
    キーとなるのは,集合の論理である。あるいは共用空間である。
    「51C」以降,鈴木成文の仕事は,一貫して住居集合と共有空間,「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか,という問いは,同時に自ら引き受けるべきテーマとなる。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。
    上野の近代家族批判はラディカルである。しかし,近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして,住居もまた極めて保守的である。しかし一方,nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係,流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。
    では,どのような空間モデルが可能なのか。
    あらゆる機会において,「建築家」には問われ続けているのである。」
     
    Ⅲ 建築をつくることは未来をつくること-山本理顕の設計手法
     山本理顕は,徹頭徹尾,理論家である。そして,社会と空間のラショナルなあり方を問うことにおいて鋭い社会批評家でもある。磯崎新や伊東豊雄のように,世界の建築界の動向を見極めながら自らの位置を定めるといった構えはない。建築を媒介としながら社会的空間の編成について提案する,まさに「社会建築家Social Architect」と呼びうる建築家である。しかし,理論が理論だけに終始するだけであれば,大きな影響力は持ち得ないことははっきりしている。具体的な建築を実現してみせることによって建築理論は迫力をもつ。
    山本理顕の住居論,建築論は,しかし,「表現論」を欠いている。空間システム,構工法システムの追求がその設計方法のベースである。弱点と言えば弱点と言えるが,だからといって,山本理顕の建築表現に力がないかというとそうではない。その理論に耳を傾けさせる基底には表現力がある。そして,その基底にあるのは,次のような深い問いである。
     「私の表現に対する思い入れは,どんなかたちで“私”を超えることができるのか。多少でも普遍性を獲得し得る可能性があるものなのか,あるいは“私”の内部だけに封じ込められるものなのか。表現に対する語り口は“私”にのみ固有の思い入れ,つまり“私”の固有性をどう超えることができるのか。その部分を突破しないかぎり,どんな表現に対する語り口も“私”以外の人々には,まったく効力を持たないと思えるからなのである。つまり,私の表現はどう共感されるのか。その仕組みは,どうなっているのか。そこを明瞭にしない限り,表現については何も語り得ないはずなのである。」(「私的建築計画学」,原題「設計作業日誌77/88―私的建築計画学として」『建築文化』1988年8月)
     
    技術という記憶が埋め込まれた素材
    「素材」が手がかりとなるのではないかと,上の問いに対して山本理顕は考える。初期の住宅作品群が「精神分裂」(渡辺豊和)と評されたことには上に触れたが,建築を始めたばかりの試行錯誤を,「「表現」の論理と「観察」の論理はまったく別ものなのだ,などと逃げまくらないで,どこかに接点が見つけられるんじゃないか。素材というものの解釈が「表現」に接近するための切り口になりそうに思えた」と素直に振り返っている。
    例えば、「藤井邸」。鉄筋コンクリート造の上に軽い鉄骨造を載せるつもりが木造となった。僕はルイス・I.カーン(1901~74)のある作品を思い浮かべたけれど,木造は本意ではなかったらしい。木という素材を柱梁として用いただけで,「和風」に見えて驚いた。これは木の性能に基づくのではなく,木造が担ってきた歴史性,私たちの「記憶」に基づくのではないか。そして,今や,気候変動,地球温暖化の問題の深刻さが明らかになることにおいて,木造建築の見直しは建築家にとっての大きな課題である。
    山本理顕の木造建築について,その性能を突き詰める方向を見たいと思うが,以降,残念ながら,掘り下げられてはいない。ただ,はっきりしているのは,木片をペタペタと貼るだけの「グリーンウォッシュ」(二酸化炭素削減を糊塗する)建築は,山本理顕とは無縁ということである。
    山本理顕は,鉄とガラスとコンクリート,すなわち近代建築を支えてきた工業材料を前提として,「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」,そして「保田窪第一団地」において,あるスタイルを確立したように思われる。
    鍵は,「屋根(ルーフ)」である。
    「GAZEBO」にしても曲率の緩やかなヴォールト屋根がなければ,「図式」だけの建築に留まったかもしれない。もちろん,山本理顕は「屋根」だけに拘ってきたわけではない。むしろ,端正なグリッド構成,ラーメン構造,鉄のディテールを研ぎ澄ませてきた。ポストモダニズム建築の跋扈の後,山本理顕をネオ・モダニズムの旗手にのしあげたのはその研ぎ澄まされたその構造システムとディテールである。しかし,その後「アルミプロジェクト」(2004)はその延長として理解できるにしても,「工学院大学八王子キャンパス・スチューデント・センター設計プロポーザル(案)」(2005)「N研究所」(2008)「城下町ホール(仮称)」(2009)になると,いささか異なった展開が見える。これまでの方針は揺れだしたのであろうか,新たな境地を見出しつつあるのであろうか,と当時思った。
     
    仮設としてのシステムズ・ストラクチュア
     山本理顕の最初の公共建築は,実は,横浜博覧会の「高島町ゲート」(1986)である。「私は自分のつくったものを見て,美しいとか凄いとか思ったことは,それまで一度もなかったけれども,この建築のようなオブジェのような現象のような出来事のようなものを見て,掛け値なしにそれを美しいと思った」(『細胞都市』)という。
     「高島町ゲート」を見て,僕も実に美しいと思った。
    60.5mφの足場用の仮設パイプ材を組み合わせて,28mの高さの塔を40本建てた。28mの高さの塔をつくるための部材としては,余りにも脆弱でぐらぐらするので相互に塔を結びつけて全体がスーパーラーメンになるような構造にした。限られた種類の部材,大量に造られ,一般的に使われている部品でかくも豊かな表現が可能になる。山本理顕の「システムズ・ストラクチュア」(『システムズ・ストラクチュアのディテール』彰国社,2001)の原型は,「高島町ゲート」である。この足場を提供した日綜産業の小野辰雄社長(1940~2023)は、1990年以降、職人大学成立の運動を展開するが、その運動に共鳴した内田祥哉(1925~2021)(学士院会員、東京大学名誉教授、日本建築学会大賞(1995))の命で、僕は、田中文雄、藤澤好一、安藤正雄らとともに参加した、そんな縁もある。
     「岩出山中学校」(1996)「埼玉県立大学」(1999)「広島市西消防署」(2000)「公立はこだて未来大学」(2000)では,鉄骨,プレキャストコンクリート(PC)による一貫して単純なラーメン・グリッドを追求している。山本理顕が戦後モダニズムの正当な継承者だというのは,まず,このシステムズ・ストラクチュアとそのディテールの追求を根拠としている。ローコストを目指して工業化構法を追求した精神と共通するものがある。
     「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」におけるスチールの既成の丸パイプを使ったディテールの追求に既にその片鱗が見られるが,19世紀の工業製品とかヴィオレ・ル・デュクを参照したというのも興味深い。『システムズ・ストラクチュアのディテール』における伊東豊雄との対談が二人のシステムに対するスタンスの違いを示して興味深い。伊東が「HAMLET」を「バラック」と評するのが案外的を射ているように思える。「バラック」という言葉も様々なコノテーションをもつが,「戦場に仮設的に設けられる兵舎」という原義,すなわち,仮設性という点では「高島町ゲート」に通ずる。「邑楽町役場」で提案されたのも,50mmの角パイプを使ったほとんど仮設建築といっていい工法である。
     バブルが弾けた以降,徹底したローコストの追求,工期短縮・・・が要求された。山本理顕の「バラック」建築の洗練は時代と見事に照応したのである。山本理顕にとっての一貫する課題は,「システムが表現に転換する時」(『GA Japan』76,2005年9,10月)である。
     
    仮説としての制度・施設・空間
     「建築は仮説に基づいてできている」(『現代の世相1 色と欲』(1996)所収)と山本理顕はいう。「ポストモダンなのかモダニズムなのかデコンストラクティヴィズムなのか」といっても,新聞の文化欄で話題になっても,一般人にとって日常の生活とは遠く離れた話だ。「形ばっかりで,中身のことなんか何にも考えてない」のが建築家であり,「形なんかどうだっていいのよ,中身が大切なんだから」というのが多くの人たちである。しかし,「建築の“中身”って何?」と山本理顕はラディカルに問う。
     仮説にすぎないじゃないか。
     「住宅擬態論」は既に見たが,「住宅というビルディング・タイプは家族という仮説に基づいてできている」というテーゼは,全てのビルディング・タイプ,公共施設に拡大適用しうる。 学校,図書館,病院,福祉施設,美術館,博物館,劇場・・・全て仮説としての制度によって規定されている。そして,空間の配列がその制度を裏打ちしている。
     「建築は制度に則ってできている。制度の忠実な反映が建築である。ひとつひとつの建築だけではなくて,身近な環境から都市環境まで含めて,およそ,私たちの周辺環境はいわば制度そのものである,という認識は,もはや多くの私たちの常識である。」(「建築は隔離施設か」『新建築』1997年2月)。宮内康の「今日の都市の風景は、建築基準法と都市計画法のほぼ正確な自己表現と見ることができる」(「風景としての都市―東京1975年」『風景を撃て-大学1970-75 宮内康建築論集』(1976))という指摘を思い出す。
     公共建築の設計計画をテーマとしてきた「建築計画学」の研究室に所属したことで,僕は,制度=施設として予めあり得てしまっている空間の調査を基に設計計画の方法を組み立てることの問題点について否応なく考えてきた。「制度と空間―建売住宅文化考―」(『見える家と見えない家』,叢書「文化の現在」3,岩波書店,1991)という文章はそうした論考である。例えば,教育施設について,「ノングレーディング(無学年制)」「チーム・ティーチング」などをうたう「オープンスクール」の出現を前にして,戦後「建築計画学」がやってきたことは一体何だったのか。I.イリイチの『脱学校社会(ディスクーリング・ソサエティ)』,M.フーコーの『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』,J.ハーバーマスの『公共性の構造転換』などが必読書であった。
     山本理顕の「建築は仮説に基づいてできている」は,「建築計画学」批判として実に説得力がある。しかも,建築家を鼓舞するように,制度=空間という常識を「仮説」と言い切る。そして,「制度はそんなに強固ではない」という。「もし建築が制度の単純な反映でしかないなら,建築の設計者というのは制度を空間に変換する単なる自動筆記機械のようなものである。制度を空間に翻訳する翻訳技術者である。」(「建築は隔離施設か」)
     
    地域社会に固有な建築類型
    山本理顕の設計手法は,以上のように,予め,身近な全ての空間に,そして既に見たように都市へと適用可能である。というより,空間の成立,空間の編成そのものが,すなわち,建築のプログラムの設定そのものが出発点となる。
    近代的な諸施設がそれぞれ「ひとつのビルディング・タイプとして整備されるのはつい最近,日本が近代国家として整備される時期である」。そして,「国家のシステムから日常の生活,地域社会との関係として再整備されるのは,ようやく戦後になってからである」。「国家というシステムから地域社会へという理念を敷衍するための装置が建築だった」。
    実に的確な状況認識である。
    現在,日本の地域社会は危機的な状況にある。子どもたちが戸外で遊べない,「限界集落」がここそこに出現する。地域社会の崩壊は覆うべくもない。そして公共施設,地域施設のあり方は大きく揺らいでいる。少子高齢社会の到来によって,これまでの施設体系,空間編成の破綻は誰の眼にも明らかになりつつある。小学校・中学校といった教育施設が余り,高齢者のための施設がより必要になるのは当然である。加えて市町村合併がある。山本理顕は,そうした問題を遙かに深いレベルで見通していたのである。
    日本建築学会の建築計画委員会が―僕はその委員長を務めた(2006~2010)―「公共施設の再編成と更新のための計画技術」と題した設計競技(2008)を行ったのは,遅きに失していると言わざるをえないが,既に様々な試みが為されていることが明らかになったことは,山本理顕の建築家としての構えの先駆性と正統性をあらためて証すことになった。
    山本理顕は,「地域社会に固有なビルディング・タイプを本気で考案する必要がある」という。「問題なのは全国画一地域社会であり,そのための日本全国画一ビルディング・タイプである」ことははっきりしているのである。『地域社会圏モデル』(山本理顕・中村拓志・藤村龍二・長谷川豪,2010)が,山本理顕が行き着いた地平である。
     
    つくりながら考える 使いながらつくる
    どうすれば,新たなビルディング・タイプを発見することができるか,あるいは考案することができるか。出発点となるのは,現場(フィールド)である。現場から組み立てる方法がそこでは問われる。アジアの諸都市についての都市組織(Urban Tissues,Urban Fabric)研究,あるいは「ティポロジア」研究は,「地域に固有な」「都市組織」「建築類型」を発見するのが目的である。
    山本理顕は,『つくりながら考える,使いながらつくる』(山本理顕+山本理顕設計工場, 2003)という。内田祥哉の『造ったり考えたり』(1986)を思い出したが,「つくりながら考える」であり,「使いながらつくる」というところに新たな位相がある。そして,「プロセスが既に建築である」と言う。
    プロトタイプか,プロセスか。「雑居ビルの上の住居」「岡山の家」「保田窪団地」のような「プロトタイプ」の提示の位相と展開はどう異なるのか。
    『つくりながら考える/使いながらつくる』は,プロセスをそのまま本にするユニークな本である。「邑楽町役場庁舎」「公立はこだて未来大学」「横須賀美術館」「東雲キャナルコートCODAN」などの設計プロセスの一端が記されている。スタッフとの本音のやり取りの中で,次のようにいう。
    「20世紀の建築家たちは常にプロトタイプを目指したように見える。ドミノとかユニバーサル。スペースというプロトタイプを考える。・・・プロトタイプがないとしたら,その都度決定するにはどうしたらいいかという話になるわけでしょう・・・そのときにはじめて住民と呼んでいいのか分からないけど,その建築の当事者が登場するチャンスがあるんだと思う。・・・「住民」という言葉があやしいんじゃないの。「住民」って,すごく抽象化されていて誰だかわからない。・・・」
    ここでも山本理顕は原理的である。
    設計プロセスを論理化すること,その決定プロセスを可能な限りオープンにすることは,逸早く,C.アレグザンダー(1936~2022)が提起したテーマである。ただ,設計プロセスはそう単純ではない。建築を構成する無数の要素を数学的な手法でブレークダウンし,分類化した与条件をもとに空間化した部分を逆に統合化していくのであるが,条件が変更されたり,加わったりすれば,フィードバックが生じる[21]。C.アレグザンダーもその限界を意識していて,基本的なパターン(ディテール,空間,その配列・・)を辞書化し(パターンブック,設計資料集成,モデル空間・・・),ユーザー(建設主体)がそれを選択するシステムを提示する。それが『パタン・ランゲージ 環境設計の手引 町・建物・施工)』(1984)である。山本理顕は,その「パタン・ランゲージ」論を批判的に総括する。C.アレグザンダーの場合,パターンが余りにも普遍的に想定されているのである。
    公共建築の設計計画,あるいはまちづくりにおいて,「住民参加」の手法として「ワークショップ」方式試みられるようになりつつある。しかし,システムを決定する主体とは誰か。山本理顕は「主体性」をめぐって繰り返し問うている(「計画する側の主体性が問われている」『建築文化』1996年6月号。「主体性をめぐるノート」『新建築』1999年11月。「主体性をめぐるノート2」『新建築』2000年9月)。「純粋空間」と「生活空間」,「身体感覚」と「共通感覚」,「個人作業」と「共同作業」,「共感される空間」・・・等々をめぐって真摯な思考が積み重ねられている。
    「邑楽町役場庁舎」コンペ(原広司審査委員長)は,まさに「プロセスが建築である」ということを具体的に問い,確認するものとなった。全ての過程をオープンにしたということは画期的なことであった。そして,「提案は他者のさまざまな見解を受け入れることができるシステムをもっていなくてはならない」「システムの誘起する建築の実現はなんらかの新しい美学に支えられること」という応募条件,評価基準は,山本理顕が考え続けてきているテーマであった。
     
    未来をつくること
     プロトタイプか? プロセスか? 誰が何を決定するのか?
    「邑楽町役場庁舎」の不幸な経緯については,日本建築学会でのシンポジウム(2007年3月16日)などの報告などに譲りたい(「活動レポート 公共事業と設計者選定のあり方-「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として-」『建築雑誌』(2007年6月))。また,『権力の空間/空間の権力 個人と国家の<あいだ>を設計せよ』(2015)に,山本理顕自身による経緯と総括がある(「4 住民参加による建築の設計,そして反対派」「第五章 「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」」)。
     一般的に「住民参加」というけれど,意志決定をめぐる制度的枠組みには大きな壁がある。常に新たな形態を生み出すシステムを支える社会システム(法・制度)が問題なのである。
    しかし,「常に新たな形態を生み出すシステム」は,別の次元で問題にできる。誰がそのシステムを提案するのかについては,山本理顕の答えははっきりしている。システムを提案できるのが「建築家」なのである。「建築家」は単なる「調停者」ではない。
    山本理顕の眼は,日本の建築界全体へ,建築社会システム全体へ,日本の都市景観の全体に注がれ始めていく。2007年から2008年にかけて,山本理顕は,国土交通省の「建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会(山本理顕,布野修司,岡部明子,木下庸子,工藤和美,宗田好史,蔀健夫,荒牧澄多)の座長を務めた。「タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)」論(布野修司『裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説』2000)を知っていて、僕も委員に招かれたのである。というより,遡ること10年余り,その前史に,二人は関わっていたのである。この時の議論の主テーマは,デザイン・レビュー制度日本版CABE[22]の導入で、住宅局長は,和泉洋人(1953~)(2007年国土交通省住宅局長、2009年内閣官房地域活性化統合事務局長、2012年内閣官房参与(国家戦略担当)。2013年第二次安倍内閣総理大臣補佐官。2020年菅内閣総理大臣補佐官。日本建築センター顧問。2021年住宅産業団体連合会特別顧問。2022年大阪府・大阪市特別顧問。)であった。詳細は省くが,東日本大震災の発生によって,この構想は実現することはなかった。
     
    アーバン・アーキテクト制
    日本版CABEの導入構想のおよそ10年余り前に,建設省住宅局が構想したのが「アーバン・アーキテクト制」である。これについては,『裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説』に詳述したが,元になったのは「建築文化・景観問題研究会」(1992~95)である。建築課長(住宅課長)として県や政令指定市に出向する建設省のスタッフと何人かの「建築家」が主として「景観問題」を議論する場が(財)建築技術教育普及センター(1982年設立)内につくられたのである。委員会メンバーは,建築課長(住宅課長)として県や政令指定市に出向する建設省の若手官僚と建築家(元倉真琴,山本理顕,芦原太郎,隈研吾,団紀彦,平倉直子,高橋晶子,原尚,小嶋一浩,鈴木エドワード),学識経験者(西村幸夫(1952~)(國學院大學観光まちづくり学部長,元東京大学副学長・先端科学技術研究センター長),大西隆(1948~)(東京大学名誉教授。元日本学術会議会長),振り返れば,錚々たるメンバーであった。仕掛け人は建設省住宅局長梅野捷一郎と建設指導課建設専門官森民夫(1949~)である。森民夫は,後に,長岡市長を5期(1999~2016)務め,全国市長会会長(2009~2017)を務めることになる。
    きっかけは「違反建築」問題である。建築行政は建築基準法の遵守を錦の御旗とする「取締り行政」のみであって,秩序ある街並みの形成に寄与していない,どうすればいいか,というのが建設省(国土交通省)の問題意識であった。研究会では,参加メンバーの問題提起を受けて議論を積重ねるとともに,各地に出かけてシンポジウムや講演会を開催した。
    研究会の結論は「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要であり,新たな制度が必要である」というものである[23]。いかにすぐれた街並みを形成していくか,建築行政として景観形成をどう誘導するか,そのためにどのような仕組みをつくるかというのが当初の問題意識であり,その仕組みに「建築家」の参加を位置づけようというのが「アーバン・アーキテクト」制と呼ばれることになった構想[24]である。しかし,この構想も阪神淡路大震災の発生によって実現されることはなかった。
     
    Ⅳ 権力の空間/空間の権力-地域社会圏の形成へ
    山本理顕が「個人と国家の<間>を設計せよ」と題した論考を『思想』誌(岩波書店)で5回にわたって連載したのは2014年であり,それをまとめて『権力の空間/空間の権力』として上梓したのは2015年である。Y-GSAの山本理顕スタジオのためのブログがもとになっているというが,横浜に拠点を設けることで,一気にそれまでの思考がより先鋭なかたちでまとめられることになった。ひとつは,「邑楽町町役場」(2002~2009)「小田原市市民ホール」(2005)「天草市市庁舎」(2015)をめぐる自治体そして地域住民との軋轢に巻き込まれたということがある。そして,もうひとつは,ハンナ・アレント(1906~1975)の思想,著作に全面的に向き合ったということがある。
     
    ノーマンズ・ランド
     『権力の空間/空間の権力』は,「ハンナ・アレントの著書『人間の条件』(1958)に不思議な文章がある。」と書き起こされる(1“no man’s land”とは何か? 第一章「閾(しきい)」という空間概念)。その文章とは,牧野雅彦の新訳(講談社学術文庫,2023)で示せば「第二章 公的領域と私的領域」「8 私的領域―財産」の「都市にとって家の内部の領域は隠されたままで,いささかの公的意義も持たないが,外側に現れる部分は都市にとっても重要な意味をもつ。それは家と家を区別するための境界という形で公的領域の内部に現れるのである。法というのは,もともとはこの境界線のことだった。古代において,法は実際の空間,私的なものと公的なものの間にある一種の無人地帯であり,これが公私双方の領域を保護すると同時に,互いに分け隔てていたのである。」という文章である。
     この文章の「公的領域」「私的領域」「境界線」「法」「無人地帯(ノーマンズ・ランド)」をめぐるアレントの議論によって,山本理顕は,その「閾論」を補強するのであるが,その骨子は,「閾」とは,「ノーマンズ・ランド」のような空間であり,「二つの異なる領域の間にあって,その相互の関係を結び付け,あるいは切り離すためのく空間」である,「都市という公的領域と家族という私的領域の中間にある空間が「閾」である」,「「閾」はそこに住む人たちを“結びつけると同時に分け隔てる”ための建築的装置である」ということである。
     イリノイ工科大学IITでのプリツカー賞受賞記念講演“A Theory of Community Based on the Concept of Threshold”(2024年5月16日),横浜国立大学2024年プリツカー賞受賞記念・名誉教授・名誉博士号授与記念特別講演会「閾論」(2024年6月7日)も以上が骨子である。” 
     
    労働・仕事・行為
     山本理顕のハンナ・アレント思想の読解は,もちろん,「閾論」の補強にとどまるわけではない。大著『全体主義の起源』に続いて,古代ギリシャに始まる西洋哲学の流れの中に自らの哲学を位置付けた『人間の条件』は,その思索に多大な共振を引き起こしている。
     『人間の条件』が問うのは,人間とは何か,世界とは何かといった哲学的問いではない。中心テーマは,「われわれが行っているのは,いったい何なのか」であり,「人間の条件」としての「活動的生活vita aciva」である。
      アレントは,人間の活動を,労働labor, 仕事work,行為actionの3つに分けて,それぞれを「人間の条件」として問う。
    労働laborは,人間の肉体の生物学的過程に対応する活動であり,人間が自然のままに成長し,外界から物質を取り入れて代謝を行い,やがて衰弱して死に至る過程は,生命維持のための生活必需品によって拘束されている。これらの生活必需品は,労働によって生産され,生命過程に取り込まれなければならない。それ故,労働という活動が行われるための人間の条件は,生命それ自体である。
     仕事workは,人間の存在の非自然的な側面に対応する活動である。仕事は,人間を取り巻く自然環境すべてから明確に区別された「人工的」な物の世界を作り出す。世界そのものは個々の人間が死んでも存続し,その意味において,すべての個人を超越した存在でなければならない。仕事という活動のための人間の条件は,自然とは区別された世界の存在である。
    行為actionは,人間と人間の間で事物を通さずに直接に行われる,ただ一つの活動である。この地球の上に生き,世界に住んでいるのは複数の人間であった,単一の人間という抽象的な存在ではないという事実が,行為という活動の条件である。
    労働,仕事,行為という3つの条件はいずれも政治に結びついているが,複数性―「生きる」ことは「人々の間にいるinter homines esse」ことである-は政治にとって「不可欠の条件」であり,それだけで政治を成り立たせる「十分条件」である,というのがアレントである。
    建築家は,人間が死んでも存続する「人工的」な物の世界を作り出す仕事に関わる。山本理顕は,アレントに依拠しながら,仕事の意味を問うている(「2 仕事の世界性」「第三章 「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間」)。
     
    選挙専制主義
     「世界の物」「空間」をつくる「仕事」に携わる建築家として,山本理顕が遭遇した「邑楽町町役場」(2002~2009)「小田原市市民ホール」(2005)「天草市市庁舎」(2015)の設計をめぐる顛末,さらには名古屋造形大学学長(2018~)解任事件(2021)は,今日の日本の建築界のみならず日本社会全体の劣化を示している。
    理不尽に仕事の機会を奪われた山本理顕の「選挙専制主義」批判・「標準化」批判・「官僚制的管理」批判が舌鋒鋭くなるのは当然である。しかし,その分析はあくまで冷静である。
     「小田原市市民ホール」(2009)は,実施設計が終了し,建設会社を決める入札直前の解約であった。反対の急先鋒に立ったのは劇作家の井上ひさし率いる『こまつ座』である。
    「城下町ホール」と仮称された市民ホールは,もともと多目的ホールであることを条件とし,設計コンペが実施されたものである。山本理顕設計工場が提案したのは,「小田原市の市民が自分たちの裁量で使い方を自由に考えることができるようなホール」であり,「プロレスの興行にも使えるし,サーカスにも使える。勿論,演劇空間としても,あるいはコンサートのためにも十分な建築的性能を持っている。そして中学生や子供たちにも使ってもらえるような多目的ホールである。実現すれば,ユニークなホールとなったことは疑いがない。
    しかし,「多目的ホールという発想は貧弱です。必ず無目的ホールに堕落します。」(「何故,この場所に今つくるのか(歴史への参加)」『神静民報』)と井上ひさしから横槍が入った。「『こまつ座』は,世界中の劇場を取材し,日本で一番劇場に詳しいと思います」といい,「世界のいい劇場はみんな,一見平凡な型をしています(そこに劇場の本質があります)。へんてこりんでいいのは演目(だしもの)だけです。」という。
    「多目的ホール」が多目的に使われない,「無目的ホールに堕落します」というのは,確かに,ホールがアクティブに運営されなければそうなる事例は少なくない。しかし,全ては建設者(自治体)のプログラムの問題であり,審査委員会の問題であって,問われるべきは劇場の本質だという「一見平凡な型」である。ましてや,小田原市が要求水準として示したのは「多目的ホール」であって,「専用劇場」ではないのである。
    山本理顕は,「へんてこりんなもの(今までにない新しいもの)をつくる資格があるのは演劇について考える人だけである。知は“考える人”の側にある。それを執行するもの(建築をつくるもの)はその“知”に従うべきである。実際には世界の劇場はその地域社会に見合うようにそれぞれ個性的である。決して平凡でもないし,標準的でもない。ここには建築に限らず,ものをつくる人びとに対する密かな差別がある。“考える人”がいる。その考えに従って“ものをつくる人”がいるという「知と行為のプラトン的分離」(アレント)である」と返している(『権力の空間/空間の権力』あとがき)。
     結局,「小田原市市民ホール(通称 小田原三の丸ホール)」が竣工したのは2021年,設計者は仙田満(1941~)(元日本建築学会会長、元建築家協会会長)に変更され,施行者は鹿島建設であった。井上ひさしの言うような劇場の本質である「一見平凡な型」が実現されたのであろうか。
     天草市庁舎の場合は,山本理顕設計工場JV(山本理顕設計工場,IGA建築計画,廣田建築・都市設計工房,フジモトミユキ設計室)の建築設計業務であったが,『権力の空間/空間の権力』の刊行段階では帰趨ははっきりしていなかった。天草市は,「くまもとアートポリス」への参加するために,2013年6月に市庁舎建設のための公募型プロポーザル・コンペを実施,山本理顕設計工場JVを設計者として選定したのであるが,翌年3月の選挙で当選した新市長が「アートポリス事業」から撤退,契約を解除する。この委託契約解除を巡って設計料の未払い分を支払うように求めた訴訟で和解が成立したのは2020年である。
     この首長が交替する度に引き起こされる公共事業の受注をめぐるドタバタ劇は,自治体行政の一貫性を著しく損ね続けている。山本理顕は,「選挙専制主義」というが,背後にあるのは,建設業界に支えられた地方政治の癒着の構造である。
     
    地域社会圏
    山本理顕が,「地域社会圏」という概念を提示したのは『地域社会圏モデル』(2010)であるが,さらにY-GSAにおける大学院生のための「特徴的な居住地域を選んで,その地域全体を再設計せよ」という設計課題を『地域社会圏主義』(2013)にまとめる。また,「コミュニティ権」という概念を使いだす(「特集 コミュニティ権主義 新しい希望」『都市美』創刊号,2019)。日本の市町村(自治体)には多くを期待できない,ということであろう。『権力の空間/空間の権力』の最終章の最終節は「7「地域社会圏」という考え方」で締めくくられるのであるが,以降,個別建築の設計を超えて,社会変革の運動へ向けて踏み出したように思える。
    地域社会圏あるいはコミュニティ権とは何か。山本理顕は,「コミュニティとはただ単に隣り合って住んでいるというような受け身の状態をさすのではない。…一つの空間を共有しているという感覚である。…自ら進んでそれを共有しようという意思を含んでいる。つまりその空間の中で,自らを現存化actualizeしようとする意志である。現存化actualizationとは,他者と共にいる空間の中で「自分をはっきり際立たせ」(アレント『人間の条件』「第五章 活動」「29 <工作人>と出現の空間」)るという意味である」という。
    『地域社会圏主義』において「空間の近接性が共同性をつくるという建築家の信念にはどうしてもついていけない」という,建築家を帝国主義者と批判する上野千鶴子に対して,山本理顕は,相互に何の関係も持たない隔離施設のような「1住宅=1家族」を前提とする社会の内側に住んでいるから,それがコミュニティを拒絶する空間であることがわからない,気がつかないのだという。
    山本理顕が,ここでもアレントに従いながら注目するのは,第三代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソン(1743~1826)のウォードword・システムである(ハンナ・アレント『革命について』「第六章 革命的伝統とその失われた宝」)。具体的なモデルとしたのはニュー・イングランドのタウンシップである。アレントは,アメリカ革命が終わったのち革命精神をどのように保持するかを考えていたのはジェファーソンのみであるといい,その「基本的共和国elementary republic」の計画が実施されていたら,「フランス革命のときのパリのコミューンのセクションや人民協会にみられる統治形態のかすかな萌芽をはるかに凌駕していただろう」という。アレントによれば,ウォードの人口規模は,フランス革命,ロシア革命,ハンガリー革命時の評議会(コミューン,レーテ,ソヴィエト)制度と同規模である。山本理顕の検討によれば,2000~3000人であり,地域生活圏,コミュニティの規模については,同程度と考えているようである。
    『権力の空間/空間の権力』では,「地域社会圏」の空間の要点が(1)「閾」を持つ住宅(2)インフラと共に設計する(3)情報の共有,秘密の保護,意思決定の仕組みの共有(4)生活保障システム(5)専門家集団(6)建築空間としての魅力,にまとめられているが,2023年に増補改訂された『地域社会圏主義』には,「一住宅一家族」モデルに代わる「地域社会圏」モデルを極めて具体的に描かれている。また、仲俊治との共著『脱住宅 「小さな経済圏」を設計する』(2018)で、それまでの仕事を振り返っている。僕は、若い建築家たちと、山本理顕が「すべてはここからだった」という「熊本県保田窪第一団地」(1991)以降の日本の住宅を振り返る布野修司編『はてしなき現代住居 1989年以後』(2024)をまとめた。世界に先駆けて人口減少、少子高齢化社会を迎えた日本において、一億円を超えるタワーマンションに住むパワーカップルがいる一方で、800万戸の空き家を抱えるのは異常である。単独世帯が約4割、夫婦のみ世帯を合わせれば約6割となる日本に必要とされているのは、新たな「集まって住むかたち」であり、山本理顕の提起する方向であることは明らかである。
    『都市美』の編集委員に招かれて,「地域社会圏」をめぐって「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」 隣組と町内会」(『都市美』第2号,2021),「カンポンとルスン 都市村落(アーバン・ヴィレッジ)の成立根拠」(『都市美』第3号,2023)を書いた。そして,日本の市町村(基礎自治体)の可能性をめぐって『希望のコミューン 新・都市の論理』(布野修司・森民夫・佐藤俊和,Goku Books, 2024)を書いたのは,「地域社会圏主義」に触発されてのことである。コミューンは,フランスで「基礎自治体」すなわち「地方自治体」の最小単位を意味するが,日本のように市町村を区別せず規模を問わない。イタリアのコムーネも同様である。人口数百人でも首都人口約220万人のパリもコミューンである。フランスには約3万8千のコミューンがあり,平均人口は約1500人,約9割は人口2000人以下である。『地域社会圏主義』は,(大)都市の内部の区に焦点を当てるのであるが,2000~3000人のコミューンには期待できるのではないか,という問いかけである。
     
    「都市美」を中心理念とした大学!?
    2010年代の山本理顕設計工場の仕事の中心となるのは,2009年のチューリッヒ空港運営会社Flughafen Zürichによるコンペで設計者に選定された「ザ・サークル-チューリッヒ国際空港複合施設(スイス・クローテン市)」である。2015年に着工し,竣工したのは2020年である。スイス最大級の建設プロジェクトに参加することで,コンペの仕組み,設計料など彼我の違いを思い知らされることになった。そして,実際にその違いを嫌というほど思い知らされたのが「名古屋造形大学学長解任」である。
    2016年に名古屋造形大学(愛知県小牧市)で講演したのがきっかけで,「埼玉県立大学」(1990)「公立はこだて未来大学」(2000)の実績を評価されて,名古屋市北区に移転する構想があった新キャンパス(名城公園キャンパス)の設計を依頼された。そしてさらに学長就任を依頼される。「ザ・サークル」の設計が進行中で断ったけれど、度重なる要請に,キャンパスの設計と同時に学問領域を再編する大学改革をすること,大学の業務管理をする補佐を付けること,学生たちの指導もする教授となることを条件として,就任することになった(2018年4月)。
     山本理顕がしたためた理念は、「都市美」を大学の芸術活動の中心理念にしたい、 “美しい都市は住みやすい都市である”、住みやすい都市,美しい都市をつくる主体はその都市の住民です、「都市美」と深く関わることによって,日本の新たな芸術運動をこの名古屋からつくり出していきたい、地域社会に貢献する人材を育てたい、という、いかにも山本理顕らしい格調高い宣言[25]であった。
    2018年12月には新キャンパスの用地が取得され,2019年には新キャンパスの設計管理業務契約が締結された。大学改革と合わせた新たな理想的キャンパス計画が進められることになった。同年8月には『都市美』も創刊された。
    しかし,事態は暗転する。問題となったのは、名古屋競馬場の跡地の再開発である。愛知県,名古屋市が2026年に開催するアジア競技大会の選手村に利用するために民間の開発事業者を公募開始したのは2020年10月であった。「名古屋造形大学」の運営母体である学校法人「同朋学園」は,他に「同朋大学」「同朋高校」「名古屋音楽大学」を運営するが、学園は、中部電力を中核とするその応募グループの一つとして参加し,公募型プロポーザル方式の審査(コンペ)で選定されれば「同朋大学」のキャンパスを移転するという。公募の締切は2021年3月で,山本理顕に知らされたのは年初で寝耳に水の提案であった。
    「名古屋造形大学」には直接関係ないが,学長は同朋学園の理事である。コンペの応募要項を読み込んだ山本理顕は,その立地(隣接して場外馬券売り場が新設,港に近くで津波災害や土壌汚染のリスクが高い)を問題視して反対したが、理事会は参加を決定する(賛成11,反対7)。納得できない山本理顕は,プロジェクトの目的,コンペの前提条件,近隣住民への説明の有無などを愛知県・名古屋市に公開質問,さらに選定方法を問題にした。公共事業のコンペをめぐる曖昧な募集要項,不透明な選定方法は,今日も繰り返されている建築界・政界の闇の体質である。何度もこの闇に阻まれてきた山本理顕は黙っていられなかったのである。
     仰天したのは,同朋学園が学長職・理事・教授職を6ケ月間停止し,期間中,学園諸施設への立ち入りを認めず,給与は支給しないという懲戒処分を行ったことである(2021年8月)。工事中であった新キャンパスにも立ち入りを禁じられ,停職期間は任期満了(2022年4月)まで延期された。学園は、さらに工事の瑕疵を指摘し,業務完了時に支払われる設計料を支払ないという対応をとった。『都市美』も名古屋造形大学としては発行しないという措置が取られた。大学もまたあきれるばかりに荒廃しているのである。僕は,この停職処分期間中に,以前から予定されていたのであるが,辻琢磨特任講師がコーディネートするオンライン授業『住居論』(山本理顕vs布野修司)を行うことになった(2021年9月8日,10月13日,11月10日,12月15日)。
     うんざりする経緯は省こう。結果だけ記せば,競馬場跡地の再開発については,愛知県・名古屋市は、経緯節減を理由にアジア大会の選手村建設を取りやめた。同朋学園も「同朋大学」キャンパス建設を断念,撤退した。山本理顕は,設計料裁判(2023年10月)も地位保全裁判(2023年12月)も勝訴した。しかし,学長復帰は果たされていない。
     
    さらなる闘いへ-プリツカー賞受賞
     悪戦苦闘を続ける山本理顕から「2024年プリツカー賞」を受賞したという電話をもらったのは正式発表(2024年3月5日)の2週間ほど前である。とてつもなくうれしい知らせであった。上述してきたように,デビューする以前から親しく接してきた建築家が,しかも,社会的に様々なトラブルに巻き込まれてきた建築家が,「建築界のノーベル賞」と言われる賞を受賞するとは、信じられない思いも湧いた。
     しかし,プリツカー賞といっても,それがいかなる賞であるのか,さしたる知識を持っていたわけではない。山本理顕の受賞を機会にその歴史,歴代受賞者,審査員を調べて,近年,「ソーシャル・アートとしての建築」をより評価する流れにあることがわかった。もっとも,RIBA(王立英国建築家協会 1834~)にしても,CIAM(Congrès International d’Architecture Moderne,近代建築国際会議 1928~1959)にしても,「ソーシャル・アートとしての建築」を謳ってきたのであるが,プリツカー賞と言えば,新奇な形態を弄ぶとまでは言わないまでも,「ちょっと変わった」「見たことのない」「形」が評価される印象が強かった。
     審査委員長のアレハンドロ・アラヴェナ(2016受賞者)は,サンチアゴ(チリ)を拠点にローコスト・ハウジングを手掛ける,また,公共建築,インフラストラクチャーの計画などを手掛ける。審査員の王澍Wang Shu(1963~)は,寧波美術館で受賞(2012)するのであるが,杭州のまちづくりに小さなプロジェクトを積重ねてきたことで知られる。
     ブルキナファソのディエベド・フランシス・ケレ(1965~)は,ガンド村の小学校,中学校,高校など数々のプロジェクトが知られるが(2022受賞),まさに山本理顕が目指すようなコミュニティ全体が参加するプロセスを基本としてきた。また,地域産材である土,砂,煉瓦,ラテライトを用い,伝統的な建築の換気システム,太陽エネルギーの利用などパッシブ技術を前提とし,建設資材の再利用,リサイクルも行う。住民は,建設に参加することでその技術と維持方法を学ぶ。ケレは社会運動家でもある。
     アンヌ・ラカトン(1955~)とジャン=フィリップ・ヴァッサル(1954~)(2021年受賞)は,住宅関連プロジェクトを中心として,西アフリカ全域とヨーロッパ合わせて30を超えるプロジェクトを実施してきているが,「決して取り壊さない」ことを理念としてきた。次世代に対して公平であること,持続可能性を徹底して追及する。トム・プリツカーは,「彼らは,建築が社会全体のためのコミュニティを構築する力をもつことを常に理解してきた」と評する。
     IITでの受賞講演の後,新たにエグゼブティブ・ディレクター就任したマヌエラ・ルカ=ダツィオの司会で,コミュニティをめぐって議論したのは,ケレ,ラカトン,ヴァッサル,山本理顕である。
     受賞後の様々な取材などで慌ただしいスケジュールをこなしながら,新たな仕事も開始されつつある。海外からのコンペへの招待,フィリピン,韓国,グアテマラなど海外からの講演依頼は,よりグローバルな仕事に結びつく可能性がある。一方,能登半島地震の被災地支援にも心を砕き,関西・大阪博覧会に危惧を表明する。メディアとしての『都市美』の刊行,地域社会圏研究所の活動を軌道に乗せることも課題である。
     山本理顕の闘いがとどまることはありえない。希望となるのは若い世代がその闘いの流れに合流してくれることである。


    [1] 本稿のもとになっているのは,『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社,2011)「第四章 家族と地域のかたち」『建築ジャーナル』誌の連載「現代建築家批評」(2008年1月~2010年12月) 13 「制度」と戦う建築家 山本理顕の軌跡 2009年1月, 14  家族のかたちと社会のかたち 山本理顕の建築論,2009年2月, 建築をつくることは未来をつくること 山本理顕の設計手法,2009年3月)である。この論考の執筆の後,山本理顕は,その拠って立つ社会のあり方を問う『地域社会圏主義』(2013)を書き,そして,歴史に残る名著『権力の空間/空間の権力 個人と国家の<あいだ>を設計せよ』(2015)を書いた。本稿は,前項の増補改稿である。主として増補したのは,Ⅳ章であるが,全体的に手を加えた。
    [2] 東京大学工学部建築学科1969年進学の学生で結成。メンバーは杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司他。原広司『建築に何が可能か』,メルロ・ポンティ『知覚の現象学』など読書会を続けた。また,講演会,シンポジウムなどを組織し、ゲーテ・インスティチュートにある表現主義映画を全部借りてきて映画会を連続開催した。そして、佐藤信や津野海太郎などの演劇集団「黒テント」を呼んで安田講堂前でテント芝居(緑魔子,石橋蓮司出演)をプロデュースした。夜は,先輩たちに,日本の建築産業をめぐる問題について連続講義を受けた。この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU』である(「<柩欠季>のための覚書」1973・01)。続けて「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビューである。そこで,僕らは「遺留品研究所」(真壁智治,大竹誠,・・)「コンペイトウ」(井出建,松山巌,元倉真琴・・・)など兄貴分と出会った。ひとつの「梁山泊」の成立であった。
    [3] 当初,昭和建築研究会と称して1976年12月に開始した。設立メンバーは宮内康,堀川勉,布野修司。AURA設計工房の浜田洋介,弘実和昭,不破章夫,「雛芥子」から千葉正継,そして「コンペイトウ」の井出建,松山巌が加わった。さらに東洋大学から岡利実,井出幸人,八巻秀房,平野敏彦,松田和優起ら多くの学生が参加した。山谷明など宮内康の古くからの友人たちも頻繁に出入りし,若い青木建,前田昭彦,温井亮も加わって,まさに「梁山泊」であった。この同時代建築研究会は,『同時代建築通信』というガリ版刷りの通信を出し続けるが(1983~1990),1992年10月3日の宮内康の死(享年55歳)によって活動を停止した。宮内康の東京理科大学を解雇された,その不当性をめぐる裁判闘争の記録は『風景を撃て』(相模書房,1976)にまとめられている。そして,『怨恨のユートピア』(1971)を含めて,その全評論をまとめたのが『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社,2000)である。
    [4] 第24回「談話室」主催,滋賀県立大学,2007年5月18日(『雑口罵乱』②所収(2008年9月)
    [5] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので,その頃を想い出してみた」(『反回想Ⅰ』(GA,2001))「何だか性懲りもなく,1968年にもどってしまう」「第六章「歴史の落丁」がはじまった1968年の頃を想い出してみた」(『反回想Ⅰ』(GA,2001))
    [6] 詳細については,福井駿『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(京都工業繊維大学修士論文,2021)に,布野へのインタビューがある。また,「建築編集譚-各誌歴代編集長が語るあのころ② 布野修司」(『建築雑誌』2024年6月)がある。
    [7] 「家,すまい,住,住むことと建てること,住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に,身体,建築,都市,国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。・・・」(『群居』創刊宣言)を謳い,石山修武・大野勝彦・布野修司・渡辺豊和で創刊。1982年12月に創刊準備号,1983年4月の創刊号『特集 商品としての住居』から2000年10月に第50号『特集 21世紀への遺言』,12月に終刊特別号(総目次・活動記録)まで,全52号を刊行した。終刊時の編集委員は,上記に加えて,秋山哲一,高島直之,野辺公一,松村秀一。全号を通じての発行責任者は大野勝彦,発行を担ったのは野辺公一(オプコード研究所)である。
    [8] 「芸術祭」のパンフにそのグループ名を用いたのが最初だという。後に大学院に入学してきた桜井淳(桜井淳計画工房所長),工藤卓(近畿大学九州工学部)が加わった。
    [9] TAU(Trans -Architecture & Urban)は,商店建築社から1971~73年に4号刊行された。編集長は坂手健剛。アートディレクションは遺留品研究所。
    [10] 原広司,香山寿夫,宮内康,三井所清典ら東京大学の大学院生らによって1961年結成。
    [11] 『住居集合論』地中海地域の領域論的考察 (1973) 中南米地域の領域論的考察 (1975) 東欧・中東地域の形態論的考察 (1976) インド・ネパール集落の構造論的考察 (1978) 西アフリカ地域集落の構造論的考察 (1979)。『住居集合論』Ⅰ,Ⅱ(2006,復刻)。
    [12] 日本建築学会:『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』(主査 布野修司,分担 編集 全体総括),協議会資料, 建築計画委員会,1988。『住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク』(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989
    [13] 「ある日あなたは突然家族も家も失った。身寄りもなにもない。あなたは誰にも頼らずたったひとりで生きていくことを決意する。・・・都市に寄生して生きていく。・・・そのための装置をデザインせよ。」。この課題については,拙著『住宅戦争』(「第四章もう一つの住まいへ」,彰国社,1989)で紹介している。
    [14] 『室内』連載を『住居論』に採録したもの。「愛人が同居する家を設計せよ」『室内』,1992年9月号
    [15] 1984年度の10課題のタイトルは,①「都市の中の点」②「P.ジョンソンの「ガラスの家」」③「断層」④「パンテオン」⑤「都市に寄生する」⑥「SFの空間」⑦「ストリート・ダンサーの空間」⑧「廃墟の再生」⑨「逆噴射家族」⑩「ポールデルボーの階段」である。
    [16] インド古来の『シルパ・シャーストラSilpasāstra(諸技芸の書)』のひとつである。Acharya,P.K. “Architecture of Manasara”, Oxford University Press, 1934.
    [17] これについては,布野修司『曼荼羅都市』(2005)参照。
    [18] Hakim, B.S. (1986), “Arabic-Islamic Cities: Building and Planning Principles”, London
    [19] 「イスラーム都市」そのものの構成原理をめぐっては『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容―』(布野修司+山根周, 2008)を参照。
    [20] 公営住宅の標準型を示す記号で1951年のC型という意味。他にA型B型があり,「51C」は東京大学吉武研究室(吉武泰水,郭茂林,鈴木成文他)によって設計された。その経緯は,鈴木成文『51C白書 – 私の建築計画学戦後史』(住まいの図書館出版局,2006)に詳しい。
    [21] 布野修司の卒業論文『構造・操作・過程―構造分析の試み―』(1972)は,C.アレグザンダー論である。“Notes on the Synthesis of Form”をもとにHIDECS(Hierarchical Decomposition)というグラフを解くプログラムを書いて,その限界を指摘した。グラフを解くプログラミングHIDECSはヒエラルキカルな組み立てを前提にしている。グラフというのは,要素e1,e2,・・・enの相互関係を示した図(マトリックス)をいう。グラフを解く他のプログラムも検討したが,現在では,ニューラルネットワークなどディープ・ラーニングの手法,AIの世界である。
    [22] 英国のデザイン・レビュー・システム。Committee of Architecture and Built Environment
    [23] 梅野捷一郎「アーバン・アーキテクトがつくる街」,『建築技術普及センター・ニュース』巻頭言,1995年冬。
    [24] 布野修司「ちぐはぐな町並み開発を防ぐには建築家の継続参加が有効」『日経アーキテクチャー』巻頭インタビュー,1995年4月10日号。
    [25] 「かねてから名城2丁目への移転を熱望してきた名古屋造形大学は,その実現を契機として「都市美」を大学の芸術活動の中心理念にしたいと考えています。それは“美しい都市は住みやすい都市である”という確信に基づいています。自らが住んでいる場所に愛着を持ち,そして誰もがそれを美しいと思えるような都市空間をつくることが,住みやすい都市につながるのだと思います。住みやすい都市,美しい都市をつくる主体はその都市の住民です。その住民の人たちと共に「都市美」を実現していきたいと考えます。 大学における芸術活動は単に自らのスキルを磨くだけではなく,地域社会の人びとの生活をより快適にし,そして美しい環境をつくるための活動であると考えます。積極的に名古屋の地域性に関わって,美しい街の景観をつくる活動をその中心にしたいと考えます。名古屋は企業活動を中心にした都市という印象がありますが,実際には伝統的な文化・芸術活動が豊富に潜在しています。それを再発見するだけではなく,名古屋の未来に貢献する新たな文化・芸術活動の拠点にしたいと考えます。「都市美」と深く関わることによって,日本の新たな芸術運動をこの名古屋からつくり出していきたいと考えます。
    地域社会に貢献する人材を育てたいと考えます。名古屋という地域だけではなく,様々な地域で活躍する人材を育てます。美しい都市環境,美しい地域社会をつくるために何ができるのか。それを考える能力を持った人たちです。今の日本社会の中で最も求められている人材です。」

コメントを残す

布野修司  Studio Spiral Chronicleをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む