- 内外世界をつなぐメディアとしての窓:建築論的論考, 書評 早稲田新書022 坂牛卓・平瀬有人 『<世界>としての窓』 早稲田大学出版部、図書新聞 第3663号 2024年11月16日

- 内外世界をつなぐメディアとしての窓:建築論的論考
- 布野修司
- 「窓」は<世界>であるという。どういう意味なのか?
- 「敷居が高い」「卯建(梲)が上がらない」など、人間関係、集団の構成、社会や国家の編成をめぐって、建築の要素(用語)がメタファーとして用いられる例は少なくない。「壁」は、建築の内部と外部の境界に建てられ、双方を隔て分離する基本的要素であるが、言葉の壁、文化の壁など、AとBを隔て分離するもの、乗り越えられないもの、障害や制約の比喩としてしばしば用いられる。「窓」は、通常「壁」を穿つことによってつくられるが、心の窓、知識の窓、希望の窓など、境界を越える象徴として、内外の世界をつなぐ、開いたり閉じたりするメタファーとして用いられる。『<世界>としての窓』という本書の「窓」も、結論としては、「世界につながる孔」という意味である(あとがき 坂牛卓)。
- ただ、本書では冒頭から、「窓」に類する言葉として、フレーム、枠、隙間、孔などが用いられ、議論は広がりをみせる。本書の記述が所々難解に思われるのはそのせいである。また、建築家二人による共著という珍しいスタイルであるが、二人の「窓」論には、当然違いがある。
- まず、それぞれ、なぜ、「窓」を考えはじめることになったかが語られる(はじめに)。続いて「一部 諸芸術における「窓」」として、演劇、絵画、写真・映画・マンガを、3章にわたって平瀬有人が論ずる。キーワードは「フレーム」(枠、額縁)である。二次元すなわち平面にフレームを与えるのは、絵画、写真・映画・マンガには共通する。近代劇場(イタリア式額縁舞台)のプロセニアムも、観客席と舞台を分け、個々の観客のパースペクティブな視角を限定する二次元的フレームの設定と考えられる。しかし、演劇が基本的に一体的な時空体験であるように(演劇アヴァンギャルドたちは、それ故、地下(アングラ)劇場、テント劇場など多様な「実験劇場」を対置したのである)、建築空間も二次元的なフレームの重ね合わせによってのみ構成されるわけではない。
- 「第二部 建築における「窓」」では、二人の建築家がそれぞれ自作品の「窓」について語る。ここでもキーワードはフレームであるが、「リ」フレーム、「マルチ」フレームという概念がさらに加えられる(第四章 窓・フレームとしての建築(坂牛)、第五章 リフレームとしての建築(坂牛) 第六章 マルチフレームとしての建築(平瀬))。一般にわかりやすいのは、「窓」がたんに採光・通風・眺望のためとして機能するだけではないことを伝えたいという「第七章 世界各地の「窓」建築」(平瀬)である。
- 壁を穿つ開口部としての「窓」と「フレーム」という概念は、建築的には必ずしも同じではない。本書では、プロセニアムや都市に設置された巨大なアーチもフレームという。フレームということであれば、柱と梁を組んだ門、鳥居、牌坊など、境界に関わる建築的要素とその構成も含めることができる。建築の内部も様々な部分によって構成されその境界設定が大きなテーマとなる。壁構造か柱梁構造かを問わず、内部空間については「窓」ではなく「フレーム」の方が説明はしやすい。第二部では、さらに、外へのフレームと内部のフレーム、うがたれたフレームと遮蔽するフィルターといった区別も持ち込まれる。建築は、二次元の視覚的表現(フレーム)のみでは説明しきれない、複雑な条件、要素によって組み立てられるということである。
- こう書いても理解できないであろうから、二人の個々の作品については、本書を手にとってもらうしかない。建築家であれば、また建築を学ぶ学生であれば、二人が誰に学び、なぜ「窓」を最大のテーマにしてきたかについて興味深い事実を知るであろう。坂牛は、USLAの大学院在学中に、脱構築主義の旗手として知られるプリツカー賞受賞者(1989)フランク・O・ゲーリーの自邸(1978)を見学する機会があり、その「窓」に感動したという。日本最大の設計組織事務所である日建設計に12年勤務した後独立するが、もともと、柱が規則的に建つことによって必然的に規則的に並ぶ窓が嫌いだったという。
- 「第三部 命を注ぎ込む「窓」」の3章は、坂牛によって書かれるが、「窓」を通り抜けるものをめぐって考察される。「窓」をめぐっての論考、あるいは、メタファーとしての窓をめぐっての考察は必ずしも少なくはない。窓サッシュ・メーカーYKK AP社が「窓学」と呼ぶ研究活動を開始したのは2007年であり、社内組織であった「窓研究所」は、2021年には公益社団法人となるが、塚本由晴「窓のふるまい学」、小玉祐一郎「窓の環境制御学」、五十嵐太郎「窓の歴史学」「窓の表彰」、原広司「窓のものがたり学」さらには建築構法計画学の大御所内田祥哉(『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』 (2017))なども加わって、セミナー、シンポジウム、展覧会などを展開してきた。2017年には、展覧会「窓学展―窓から見える世界―」「窓学国際会議―窓は文明であり、文化である―」、2019年には東京国立近代美術館との共催で「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」を開催している。本書では、何故か、こうした動きや論考については触れないが、「建築の「窓」を考える本は数多くあるが、本書は「窓」とそれによってつくられる世界を考える本である」(まえがき)と書いている。そのオリジナルな論考はこの「第三部」にある。
- 「第八章 窓の形状とそこを通り抜けるもの」は、一般的にもわかりやすい、建築家が基本的に意を注ぐ音、熱、光、空気とその制御についての考察である。内部と外部の間のさらに内部空間の間の、どのような部位に、どのような形の、どのような大きさの穴(窓)をいくつ、どのように穿つかということは、建築家の腕の見せ所である。しかし、「第九章 流れについて」は、通り抜けるものに人の流れが加えられ、動線(機能的な流れ)や運動(知覚を伴う流れ)に考察は拡張される。明らかに、通常の「窓」論を逸脱し、出入口、扉、・・・すなわち、外部への開口部一般が問題にされる。そして、最終章「第一〇章 建築を越えて」は、まさに「建築を超えて」「町の窓」を問題にする。
- 建築家の「窓」論が、ややもすると画一的で均質なファサード・デザインに対するアンチテーゼとして多様で多彩なファサード・デザインを提起するものとして受け止められるなかで、「窓」の本質的に考えながら「町の窓」に行きついた坂牛の建築論の深化には共感を覚える(「都市組織論」について考えてきた評者は、坂牛の紹介する木村暁(2019)『細胞建築学入門』の「細胞の中枢なき調和」に特に興味をもった)。
- 本書を読みながら、「窓」のない建築はあるのか、視力を欠いた人にとって「窓」とは何か…、などいろんなことを考えた。建築は今自閉しつつある。坂内は、メディア(ICT,SNS)の侵入に対して「窓」のライブ性を強調するが、現実の「窓」の力は既に弱体化しつつあるのではないか。英語のウィンドウは古ノルド語に由来し「風の目」という意味というが、マイクロソフトのOSがWindowsと称するのはなにやら暗示的である。

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