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「ばけばけ」の出雲弁 出雲弁は古代日本語

 エナゲナ言葉-出雲論ノート 01

 NHKの朝ドラ(「連続テレビ小説」)『ばけばけ』が始まって,毎朝,懐かしいというか,恥ずかしいというか,こそばゆいというか,奇妙な気分にさせられている。「ソゲデスガ・・・アゲデスガ・・・」という出雲弁もどきの会話によって,松江で育った少年時代に連れ戻されるのである。

朝ドラで「出雲」が舞台になるのは,2008年の『だんだん』以来2度目という。『だんだん』は,生まれてすぐに離れ離れとなり、島根県と京都市でそれぞれ育った双子の姉妹が出雲大社で偶然出会い,二人で歌手デビューし、人気絶頂で解散して、それぞれ新しい人生を歩むことになる物語であった。脚本は森脇京子、テーマは、「愛」「産んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」「あなたに出会えてありがとう」、そんな「ありがとう」という感謝の意味を持つ出雲弁の「だんだん」がタイトルにつけられたという。

『ばけばけ』は,小泉八雲(ラフカディーオ・ハーン)と小泉節子(セツ)の物語である。ハーンが島根県尋常中学校と尋常師範学校の英語教師として松江に着任したのは1890年8月で,翌年の11月に熊本の第五中学校に転任するから,松江に滞在したのは1年3ヶ月ほどであるが,松江生れであれば小泉八雲の名前はだれでも知っている。セツとの電撃結婚の経緯は,いままさに放映中であるが,松江城の内堀に面した塩見縄手にある小泉八雲旧居に熊本に転居するまで五ヶ月住んだ。その隣にある小泉八雲記念館は1933年に山口文象によって設計された近代建築であったが1984年に塩見縄手の修景計画にともなって和風の木造建築に建替えられている。小泉八雲の曾孫である小泉凡さんには,島根県立大学教授で館長(現顧問)を務められていたころお会いしたことがある。小泉八雲と明治の出雲については,別稿としよう。

本稿のテーマは出雲弁である。出雲弁というと「だんだん」が東の横綱で,「ばんじましてね」が西の横綱という(「出雲方言見立番附」)。しかし,「だんだん」は「だんだん有難う」の略であって,京都の遊里で天明年間(1781~89)に使われるようになった挨拶語である。出雲・島根県のみならず鳥取県西伯部,山口県大島、愛媛県温泉郷、高知県幡多郡、福岡県博多,大分県直入郡、宮崎県西臼杵郡高千穂など西日本のかなり広い範囲で使用されている。だから、東の横綱というのはおかしいというのが藤岡大拙(2008)『出雲弁談義』(ハーベスト出版)である。「ばんじましてね」すなわち「こんばんは」という夕方の挨拶も広範囲に使われている、出雲だけで使われる言葉などというものは極めて少ないと藤岡大拙(2008)はいう。

出雲で,藤岡大拙(1932~)と言えば,超有名人である。大拙先生に僕は松江南高校で古文を習った。京都大学文学部・大学院で中世史を専攻されたのであるが,出雲・島根の歴史については,古代から現代にいたるまで,該博な知識を誇る第一人者である。島根県立大学短期大学学長,島根県立八雲立つ風土記の丘所長、島根県文化振興財団理事長、NPO法人出雲学研究所理事長、荒神谷博物館館長、松江歴史館館長を歴任されてきた。そして,大拙先生は出雲弁保存会会長である。僕は、この間,しまね景観賞審査委員会委員(1994~2008), 島根景観審議会(1996~2000),大橋川周辺まちづくり検討委員会(2005~2010)でご一緒する機会があった。

「エナゲナはホンタ(本当は)イナゲナだども、出雲弁ではイがエになって,エナゲナにナーダガノ(なるんだよ)。変な、おかしな、いやな、チーヤナ(というような)意味だね」

「エマンゴロ(今頃)のワケモンは、本読マデエケン(読まなくていけない)わ。マ、ソギャンコタドゲデモエダドモ(まあ、そんなことはどうでもいいけど)」

「ソラソゲダワナ(それはそうだわね)。ダケン(だから)、ゲナ、ゲナ話はオソ(嘘)だゲナ、チーヤン(というような)ことも言うわね」

・・・

出雲育ちだから,説明なくてもほとんどわかる。しかし、一般には分かりにくく、出雲弁は「ズウズウ弁」に近いと言われる。―「ズウズウ弁を大辞林でフイテミート(引いてみると)、<東北地方特有の鼻にかかる発音で話される方言。シ・ス・チ・ツ・ジ・ズが混同し,特にジュウがズウに近い音で発音されることからの俗称>とノッチョー(載っている)」―。その説が広く信じられるようになったのは松本清張の推理小説『砂の器』(1961)である。殺人事件の被害者が東北訛りの「ズウズウ弁」を話していたこという情報を得て、東北地方を捜索するのであるが、実は被害者は、東北地方と似た方言を使用する出雲であったという謎解きである。

東北弁といっても、使われる範囲は北関東から青森まで広いけれども,関東以西で出雲弁のみ「ズウズウ弁」に近いというのは何故か。北前船の船乗りが美保関の港に入って,風待ちで船宿に逗留することで伝わったのではないかという説はありえない。北前船は出雲以外に逗留するのである。

「出雲は国エジリ(譲り)で大和朝廷に負けた。大国主命が国を献上サッシャッテ(なさって)、大社を建ててマッテ(もらって)、そこへ隠れサッシャッテ、もう外へは出られンヤネ(ないようの)なった。ソーデ(それで)出雲人も鎖国して、外のモン(者)と付き合わんコネ(ようにして)、ワーワドーシ(我々同士)で助けヤコ(合い)してやってきたもんだ」

何が言いたいかと言えば,出雲は他との交流を閉じてきたから古い言葉を使い続けてきたということである。藤原道長も紫式部も「ズウズウ弁」をしゃべっていた。

藤岡大拙説、すなわち、出雲弁というけれど、出雲に固有な言葉は少ないというのが第一テーゼ、「出雲弁」が「ズウズウ弁」に似ているという第二のテーゼ、そして、「出雲弁」は「古代日本語」を残してきているという第三のテーゼは整合的である。

 「出雲弁」で雷が落ちるということを「アマル(アマル)」という。「アマッタ」は落ちたである。「アマル」すなわち「天降る」である。なんの文章だったかは忘れたけれど、古文の教科書に実際出てきた。それ依頼、この藤岡大拙説を信じている。

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