「近代の呪縛を放て」(反近代)を解き放し、新たな分野を切り拓き、布野思想を提示する,この人に聞く 第183回,建築士,2024年7月
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建築思想家、日本建築学会名誉会員、日本大学客員教授、滋賀県立大学名誉教授
布野修司
「近代の呪縛を放て」(反近代)を解き放し、新たな分野を切り拓き、布野思想を提示する。
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*広範囲な活動、新たな分野を切り拓く
布野修司の活動は広く、肩書きをつけるのが難しい。建築・都市研究家、建築評論家、建築批評家、建築ジャーナリストなどだが、それには収まらない。送ってもらった「履歴書」は、生年月日から始まって学歴、職歴、教育研究活動まで小冊子ほどの厚さに驚いた。それだけ広範囲に活動してきたこと、新たな分野を切り拓いてきたということである。
大別すると、建築ジャーナリズム、アジア研究、そして住居論といえる。これらの領域には先人の研究や仕事があるが、本格的ではなかった。とくに建築ジャーナリズムは明治近代以降、未確立の分野だといっていい。それだけに布野の活動は、悪戦苦闘の連続だったといえる。それは大学院生時代に出会った建築家や建築ジャーナリストらとともに「近代の呪縛を放て」という「反近代」「反モダニズム建築」という途方もない課題を背負ったことにある。
*祖父・父の影響で建築へ
布野は1949年8月生まれ。1968年3月島根県立松江南高校卒業後、同年4月東大教養学部理科Ⅰ類入学。
なぜ建築学科を選んだのか。
「東大に入る時は、建築をやろうとは考えていなかった。ただ父は松江工業高校を出て、現在の日建設計の前身の住友本店臨時建築部に入る。その後ハルビンへ行き、戦後に帰還。松江に戻って松江市役所に勤め、最後は都市計画部長。松江で仕事をした菊竹清訓先生や芦原義信先生などの建築家の話を聞いて育った。当時の『新建築』は中学生頃から見ていたし、祖父が大工だった。そんなことが、建築へという気持ちになったのだと思う。」
*駒場2番で本郷へ
布野には、伝説めいたことがいわれてきた。「東大駒場のトップが本郷の建築学科にきた」というものである。東大に入ると1年生から2年生前期まで駒場キャンパスで学び、そこから進路を決めて本郷キャンパスにいく。
「駒場の私のクラスは50人くらい。1年生は語学で編成される。43S1-5Bのように。昭和43年のS1の5Bのこと。S1がサイエンス(理科Ⅰ類)でBはドイツ語。しかし当時まともな授業はなかった。試験はなく、ほとんどがレポート提出。実際は2番でした。だから理学部でも法学部、経済学部でもどこでもいけたが、身近だった建築学科に決めた。」
2番だから「伝説」ではなく、ほぼ事実だったのである。もともと文章を書くのは得意だったようだから、今日までの膨大な文章書きも苦にならないのだろう。「建築という手間暇かかる仕事に直接タッチしない分、文章を書くことを主要な仕事にしてきたような気がする。」
*駒場も本郷も紛争中
では当時の駒場は、どうだったか。
「建築への進学が決まると、三宅理一や杉本俊太などと出会い、〈雛芥子(ヒナゲシ)〉というグループをつくった。吉武泰水先生や丹下健三先生も駒場に授業にきた。丹下さんの授業はアーバンデザイン。ロストウ曲線を持ち出して建築の時代は終わったという。2回だけで代講は渡辺定夫さん。吉武さんの講義は、自ら設計者として責任が問われた東大医学部の〈北病棟問題〉だった。」
「駒場から本郷・工学部へ、そして吉武泰水研究室に入ったが、本郷も紛争中。三宅や杉本は歴史の稲垣栄三研究室にいったけれど、私は吉武研究室を選んだ。助手だった下山真司、曽田忠宏、そして松川淳子さんの影響が大きかった。」
布野の活動は建築や都市論を中心に多岐にわたるが、磯崎新や原広司などのように建築作品はない。反万博(Expo’70)運動もあり、建築することが厳しく問われた時代だった。建築の本来的なあり方をめぐって、さまざまな研究や建築運動に関わることになる。その範囲は驚くほど広く、建築思想家とも呼ぶべきほどである。
*建築ジャーナリズムへ
最初に、布野の建築ジャーナリズムに触れる。
布野が「編集の神様」と呼んだ建築ジャーナリスト(編集者)・平良敬一は、2020年4月94歳で亡くなった。
戦後、平良が創刊を含め関わった建築雑誌は『新建築』、『国際建築』、『建築知識』、『建築』、『SD』、『都市住宅』、『住宅建築』、『造景』、『店舗と建築』、『建築設計資料』、『チルチンびと』などだが、そのほとんどはいまはない。わが国建築ジャーナリズムの衰退は、眼を覆うばかりである。
平良が亡くなる3年前の2017年5月、東京・竹橋の学士会館で唯一の建築論集『機能主義を超えるもの』の出版を祝う会があった。その場で布野が建築ジャーナリズムの閉塞状況を嘆いたところ、「そう思うのなら、ひとりでやれ!」といわれたという。布野は「それは私への遺言である。」と書いている。
*名著『建築少年たちの夢』
布野の数ある著書のなかでも『建築少年たちの夢―現代建築水滸伝』(2011年)は、平良とは違った視点と活動をもった建築ジャーナリストの貴重な記録である。私が編集に関わることになった
布野の最初の名著『戦後建築論ノート』(1981年)とともに、これらを超える書はないだろう。
冒頭、次のようにある。◆100行
「1960年代末から70年代にかけて、全共闘運が燃えさかる中に、建築少年たちの〈梁山泊〉が
日本各地にいくつもできた。そうした〈梁山泊〉の中から世界に名を轟かせる建築家が育っていった。本書は、そうした建築家たちと〈梁山泊〉で出会い、その活動を見続けてきた著者による、いわば〈現代建築水滸伝〉である。」
登場順は、安藤忠雄(1941年)、藤森照信(1946年)、伊東豊雄(1941年)、山本理顕(1945年)、石山修武(1944年)、渡辺豊和(1938年)、象設計集団(1971年結成)、原広司(1936年)、磯崎新(1931年)である。
ここに登場する建築家たちは、多少の年代差があるが、共通しているのは反近代、反モダニズム建築ということ。ポストモダンもあったが、それを含めてもまだこれら現役の建築家たちは、いまも建築や文章で格闘を続けている。本書が出てから13年になるが、いまの若い世代はこうした建築家たちの活動や建築を、どのくらい知っているだろうか。
かつての建築界はここに登場する建築家たちや、先行する丹下健三や村野藤吾などのつくる建築に一喜一憂し、村野藤吾賞や吉田五十八賞などの顕彰制度もあって活況があった。建築家の存在が社会的にまだあったが、いまやそれもなく寂しい。
私は1941年生まれだから、長谷川堯(1937―2019年)と布野(1949年)の中間、同世代といっていい。だから布野が文中で触れている宮内康(1937-1992年)や毛綱毅曠(1941-2001年)などを含め登場人物のほとんどに会っている。それだけに、すぐれた同時代史として、つい最近のことのように読める。
宮内について触れると、『宮内康建築論集―風景を撃て 大学1970―75』(1976年)を手伝った。東京理科大学野田キャンパスでの宮内康(本名、宮内康夫)の解雇についての記録で、本書の半分はその時の裁判「陳述書」である。闘争を通して、大学とはなにかを問うている。私は一読、すべての建築関係者に呼んでほしいと思った。建築家や建築教育、設計事務所などのおかれている現況は、当時より悪化している。それだけに、いまでもぜひ読んでほしいと思う。
宮内は布野に大きな影響を与えた建築家の一人で、「康さんのそばにずっといた。それにしても、裁判のダメージが大きかった。」という。55歳で亡くなったのは、そのことがあったのかも知れない。
布野たちは多少の年代差はありながら、大学院生時代からさまざまなグループをつくり、雑誌をつくり文書を書き互いに切磋琢磨してきた。だから梁山泊だといったのだが、そこにいつも関係していたのが布野である。いわば梁山泊を束ねる棟梁といったところである。そのことによって、いち早く『戦後建築論ノート』を書けたのだと思う。
平良敬一は、先に触れたように戦後の主要建築雑誌の創刊のすべてに関わったが、布野はそうしたメジャーではなく、それらを支えた次世代の若い建築家たちと一緒に動き、運動体として新たな時代を切り拓いた。
*山本理顕の反近代闘争
布野は『建築少年たちの夢』で、山本理顕を「〈制度〉と闘う建築家」として、「日本の第一線で活躍する建築家の中で、最も〈正統的〉なのが山本理顕である。」とのべている。
山本は「邑楽町役場庁舎」のコンペで当選したが、設計契約を解除された。それに対して裁判を起こした。東京地裁での裁判で伊東豊雄が証人にたち、建築家とはなにか、コンペとはなにかを1時間近く裁判長に懇切丁寧に説明した。しかし裁判長の反応はすこぶるなかった。大事な裁判なのに傍聴席もまばらだった。
最近では名古屋の学校法人「同朋学園」。名古屋造形大学新キャンパス移転で設計を特命で受注。その際学長も依頼され就任するが、その後懲戒処分になり無効で提訴、さらに設計料の不払いでも提訴、いずれも勝訴した。
こうした裁判を起こすのは、経済的にも時間的にも大変な労苦を伴う。それにもかかわらず、訴訟を起こした。それは布野がいうように、「制度」(近代)と闘いであり、宮内康闘争と同じである。建築家でいえば、伊東豊雄の例がよくわかる。反近代、反モダニズム建築を求め続け、そのたびにさまざまなデザインを試みている。
その山本が今年、プリツカー賞を受賞した。建築や社会制度、既成概念への異議申し立てを続けた闘いの連続だった、あわせてデザインも評価された。遅きに失した感もあるが快挙である。
私が長谷川堯や宮内康、布野などに感応できたのは、1960年4月田舎の高校を出て上京後出会った吉本隆明の影響による。当時は60年安保の敗北感、閉塞状況にあった。そのなかで吉本は全学連運動に関わった学生たちの裁判闘争を支援した。いまにしてみれば、それは制度やシステムも含めた反近代闘争だったとわかる。
*WEB時代に対応、次世代へ引き継ぐ
では次の世代はどうか。布野が姉妹編だとする『進撃の建築家たち―新たな建築家像を目指して』(2019年)がある。1969年東大安田講堂攻防戦のあった半世紀前、磯崎新は38歳、藤森照信は22歳の頃で、それぞれ巨大ななにかに対して闘ってきたが、その後継者について書いたといっている。◆200行
布野の『進撃する建築家たち』は、なにに向かって闘おうとするのか。その建築家たちの作品と活動を取り上げながら、自分の半世紀の歴史を重ねてみたいといっている。ここでも『建築少年たちの夢』と同じように貴重な自分史の続きが語られ、いろいろなことを教えられる。
渡辺豊和の子息・渡辺菊眞から始まって、岡啓輔まで25人。『建築少年たちの夢』は若い建築家だから、私が知っているのは渡辺菊眞のほか、藤村龍至、平田晃くらいである。このなかには、平田晃(村野藤吾賞)、魚谷繁礼・みわ子(建築学会作品賞)、水谷俊博(建築学会業績賞)などがいる。
ただ気になるのは『建築少年たちの夢』に登場する梁山泊の建築家たちのように、グループをつくり議論し文章を書きといった活動とは少し違うように思える。もはや闘うべき近代が不在なっているのかも知れない。それらを含め布野は、建築界の現況を閉塞状況といっているのだろう。
布野はこの閉塞状況を打破すべく、2013年建築学会のなかにWEBマガジン「建築討論」を立ち上げた。情報化時代に建築をめぐる幅広い批評的論戦の場をつくった。現在は日大客員教授のほか、2013年に斎藤公男らが創設したA―Forumの主力メンバーとして活動をしている。これもWEB時代への対応である。平良敬一などの前世代が展開してきた紙媒体も含め、若い世代がより参加しやすくしたのである。
*多士済々な布野群像
布野はいろいろな大学で助手、助教授、教授、退官後は特任教授などを勤めた。
「大学という制度は、建築の生産システムと同様一筋縄ではいかない。僕は、東京大学の助手を2年間したあと、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学、日本大学の私立大学、国立大学、公立大学で半世紀近く建築教育に携わってきた。」
それだけ布野がさまざまな状況で必要とされ、招聘されたということである。だから教え子も多い。これほど多くの建築家、批評家、大学教師に出会った人はいないだろう。
こうした人物像をまとめたものに村松貞次郎『日本建築家山脈』(1965年)や馬場璋造『日本の建築スクール』(2002年)などがある。それらと同じように、布野の活動は「布野スクール」ともいえるが、それよりも「布野群像」と呼ぶ方が相応しいかも知れない。そこからすぐれた人材が育った。
根底には、時代の動きや変化を知ろうとする激しい希求と好奇心である。そして多士済々な人間が好きで、つねに同時代人でありたいという強い願いである。こうした人は稀である。略歴を見てもらうとわかるが、実にさまざまな大学へ教えにいっている。学生たちはそこで布野の博覧強記に驚き、そこから建築づくりや研究を広げていったことだろう。『進撃の建築家たち』は、その教え子たちの戦績でもある。布野は、すぐれたオルガナイザーでもある。
そして『進撃の建築家たち』のもう一つの特徴は、登場する建築家たちが、「地球・地域・コスモロジー」、「社会・建築・運動」、「建築・形態・都市」、「職人・素材・技能」、「地域へ、そして地域から」、「町屋、集まって住むかたち」、「空間資源の再利用」、「〈建築〉の脱構築」、「自立建築」といったように、これまでの建築単体から環境へ踏み込んでいることだ。時代の変化とともに、布野の関心や対象も拡大していったことがわかる。
*布野思想の原点「近代の呪縛を放て」
布野の最初の本、『戦後建築論ノート』に触れる。布野はここでなにを書きたかったかは、これまで触れた著書のなかで何度も書いている。当時私にとって衝撃的で、こうした書き手は2度と出てこないのではと思った。今回、半世紀ぶりにあらためて読み直してみて、その先駆性に驚いた。
本書のもとになったのは、「60年代への喪歌」(『建築文化』1977年10月号所収)で、書くきっかけは1975年から1977年まで断続的に10回連載となった「近代の呪縛に放て」のシリーズ企画。コア・スタッフの伊東豊雄、北原理雄、長尾重武、富永譲、八束はじめの一員として参加。「この企画は長尾さんと北原さんで、私は長尾さんに呼ばれた」。伊東をトップに布野は最年少、渡辺豊和、毛綱毅曠、石山修武、安藤忠雄らに次々と出会ったという。
布野は1968年に東大教養学部理科Ⅰ類に入学、1972年に本郷の工学部建築学科に入る。卒業論文は「構造/操作/過程―構造分析の試み」(1971年)。大学院は建築計画学の吉武泰水研究室。修士論文は「建築計画の諸問題」(1974年)で、「環境読解の方法」や記号論記号学に依拠したものだという。
「近代の呪縛を放て」のメンバーになったのはこの時だから26歳、大学院修士課程を終えたばかりである。◆300行
「建築を学び始めたばかりの私にとって、4年にも及ぶそのシリーズの議論の場は実に貴重なものであった。(略)そうした人びとから建築について多くのことを学ぶことができた。良かれ悪しかれ、その場は私にとって建築を考えてゆくきっかけになったように思う。」
*反近代の名著『戦後建築論ノート』
『戦後建築論ノート』の基本的構えは、メタボリズム批判、すなわち近代建築の根源的批判は産業社会の論理そのものの批判に行き着くということで、若い世代が「戦後建築」をどう乗り越えるかが問題ではないかだったという。
「しかしその場は、建築を取り巻く状況をそのまま反映するように拡散的であった。時代の転換が、かつてない重さで建築における近代そのものを批判的に捉え返す作業を要求しつつあることは意識されていたのであるが、そのための共通のテーマを見出すことすら困難であったように思う。まさに主題の不在である。議論は収斂しない。(略)抽象的、観念的に、建築における近代を問題とすることのもどかしさを感じていたのは私一人ではない。」
当時の状況が、とてもよくわかる。そして建築における1960年代を問うことは避けて通れない問いとなっていった。だから「第一章 建築の解体」となったという。
「建築計画の研究室(吉武研)に席を置き、建築計画の分野がその存在基盤を見失うほどに行詰まりを見せていた私は、新たなパースペクティブを得るために、建築における計画学的思考の歴史的展開を捉え直す必要に迫られていたからである。」
そこで1978年に開かれた「同時代建築研究会」に参加していく。そこでの議論が、本書に大きく投影されていると述べている。
「第一章 建築の解体」、「第二章 呪縛の構図」、「第三章 近代化という記号」、「第四章 世紀末へ」で、第一章から第三章までのサブタイトルは「建築における1960年代」「戦後建築の零地点」「戦後建築の展開」である。
この時期に、こうした書が書かれたことに驚く。
その後、『戦後建築論ノート』の増補改訂版『戦後建築の終焉―世紀末ノート』(1995年)を書く。この間のベルリンの壁解体、ソビエト連邦の崩壊、国内では昭和が終わり、55年体制の崩壊といった国内外のドラスティックな推移に対応するためだが、基本的な骨格は変えてないという。こうしてみると『戦後建築論ノート』は、布野思想の原点だったとあらためてわかる。
*未開拓のアジア研究で建築学会賞受賞
布野思想のもう一つの柱である学術研究に触れる。東南アジアを含むアジアである。
布野は「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究」(1987年)で、1991年日本建築学会賞論文賞を受賞する。授賞理由に、次のようにある。
インドネシアのカンポンと呼ばれる庶民の居住地を対象に、その居住環境の実態と都市化にともなう変容過程を明らかし、都市のカンポンにおける今後のハウジング計画のあり方を提示した。(略)カンポンの劣悪な環境が、植民地都市としての発生の歴史、非工業的な自然村落性を内包した都市化、住民構成の社会的重層性などの非西欧的西欧的都市過程と密接に結びついたものであること、今後の改善には西欧的な近代化、合理化をめざす理念とは異なった計画の考え方が必要であることを明らかにした。(略)インドネシアの都市居住環境の歴史と現状の社会史的、都市計画・建築計画的解明、その改善プログラムの提言は、著者の問題把握の大きさと鋭さに支えられ、豊富な実態調査にうらづけられて、きわめて論理的で説得性豊かに展開されている。
この研究の重要性がわかる。
布野は受賞の言葉を、次のようにのべる。
カンポンというのは、日本語でムラを意味する。行政府ではなく、自然村の概念に近い。しかし都市の住宅地も一般的にカンポンと呼ばれる。しかし決してスラムではなく、都市内集落としての特質をもっている。その特性を計画論から明らかにした。
本書と同時期に出したのが『カンポンの世界』(1991年)で、上記論文のエッセンスをまとめたもの。学術論文ではないから、ハンディで読みやすい。カンポンに通い始めてから10年ほどになるというから、1980年頃となる。なぜひきつけるのか。「要するに面白いのである。日本ののっぺらぼうな居住地が貧しく思えるほど活気に満ちている。」といっている。
授賞理由に、「今後の改善には西欧的な近代化、合理化をめざす理念とは異なった計画の考え方が必要であることを明らかにした。」とある。ここからのちに日本のまちづくり、タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)などの提唱など、布野思想のもう一つの原点「住まい論」が出てくる。
*東洋大から京大へ拡大
では布野のアジア研究はいつ頃か。
「アジアへの関係が深くなるのは京大との関係が大きいが、その前に東洋大学にいったこと。読んでくれたのは、助教授だった内田雄三さん。東大で助手だったから、講師で29歳の時。いったら磯村栄一さんから、うちは東洋だからすぐアジアをやれといわれた。それが私の最初のアジア研究の突破口になった。」◆400行
先の学会賞受賞の言葉には、東洋大学での磯村英一の提案によって1978年から進められてきた研究プロジェクト「東南アジア研究」とある。
『建築少年たちの夢』では、東洋大に赴任した1979年1月から2月にかけてインドネシアやタイ、フィリピン、マレーシアにいったのがアジア研究の出発点。そして「東洋における居住問題に関する理論的実証的研究」という研究プロジェクトをはじめた。それは東洋大にいた前任者・原広司の「世界集落調査」が大きな刺激になったという。学会論文賞受賞の13年前である。
「東洋大のアジア研究と〈近代の呪縛を放て〉の時期は重なっている。当時はヨーロッパ近代でなくてアジア批判があった。いまでもあるが、それは問題が多いのではないかと。建築史の仲間はヨーロッパばかりを見て、それもたいした成果をあげていない。それなら私が本格的にやろうと思った。そのうち、インドネシアをやっているのならうちにこないかとなった。だから京大に呼ばれたのもアジア研究のつながり。呼んでくれたのは西川幸治先生と巽和夫先生。」
「しかし京大へいったら研究費が少ない。国立ということもあるが、東洋大の方がはるかに潤沢だった。それでも京大にいてアジアに何度もいけたのは科研費がついたから。駒場時代のレポートではないが、いまでもそうだが、そうした文章を書くのはうまい。」
「京大は構造の強いところだから、論文(査読付)を書いていた方がいいといわれたが、建築学会の黄表紙に1本も書かずに学位をとった。だから布野研究室のメンバーには、学位だけはとれといってきた。それで教員になったのが25人を超えた。」「京都の町はいいけど、そんなこともあり、その意味では居心地が悪かった。」
京大建築学科は、なにかとスキャンダル事件が起き、週刊誌を賑わした。竹山聖もなかなか教授になれなかった。若い研究者の布野が、次から次へと重厚な著書を出す。布野へのジェラシーが大きかったのもうなづける。
14年ほど京大にいて、2005年滋賀県立大学教授になる。招聘したのは、構造の藤原悌三。
布野は同大で副学長までやった。東洋大14年、京大14年、滋賀県立大10年、65歳で定年となった。そしていまは先に触れたA―Forumなどを拠点としている。
こうして見ていくと、布野はいろいろな分野で先達に恵まれ、それに応え大きな成果をあげ、布野思想をつくりあげていったことがわかる。
*布野住居論の展開
そして「東南アジア研究」初期に書かれたのが『スラムとウサギ小屋』(1985年)である。
大正末から昭和初期にかけての東京には、現在の東南アジアの諸都市の「スラム」と立地や形態がよく似た「不良住宅」が広範囲にあった。しかし日本の都市は戦後一変する。高層住宅地に建て替わり「不良住宅」はこぎれいな町となった。その過程は、同時に東南アジアの諸都市に圧倒的な「スラム」が形成される過程でもある。日本の場合、バラックから抜けだしたかのように思える。しかしそれによって得たウサギ小屋には決定的ななにかが欠落した。それでいいのか、といったことをのべている。
ここには、布野が『群居』(1983年)を創刊し、「住まい」とはなにかを展開していく方向性がある。そして同じ頃に出したのが、『群居』に書いた文章をまとめた『住宅戦争』(1989年)。ここでもカンポンを通して、わが国の戦後の住宅政策や変遷をのべる。そのなかで建築家が然るべきポジションを得ていないのなら、そしてそれを主体的につくり出そうとするなら、おのずとそこでの建築家像はこれまでとまったく異なるはずだという。
*タウンアーキテクト制の提唱
これが『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(2000年)につながっていく。
タウンアーキテクトは、欧米では自治体の都市計画に一貫して関わり、さまざまな施設づくり担う専門家である。まちづくりは自治体の仕事だが、しかし十分に機能しているかは疑問である。そこで両者を媒介するのがタウンアーキテクトである。なにをするのか。一つはまちの景観をどうするか。もう一つは防災、安心で安全な身近な環境をつくり出すことである。
明治以来、建築家は実はなにも身に着けていない「裸の建築家」ではないか。タウンアーキテクトもコミュニティ・アーキテクトも西欧のものだが、しかし建築家はその存在根拠を地域との関係に求めざるを得ない。そうでないと、いつまでも「裸の王様」のままである。それをわが国戦後建築50年から建築士制度のあり方まで論じている。◆500行
「コミュニティ・アーキテクトやタウンアーキテクトの仕事は自治体ベースでやらないといけない。それと自治体のネットワークが必要。国交省の指導だけでは街並みは、少しもよくならない。一極集中の東京都では、容積率確保の規制緩和で、神宮の森の木がなくなったり、タワーマンションが林立する。利潤優先の都市計画になっている。」
こうした言及は『景観の作法―殺風景の日本』(2015年)に引き継がれていく。
2011年3月11日の東日本大震災後につくられた風景は茫漠たる風景で、「殺風景」で風景は殺されたままである。その風景をつくったのは「制度」である。被災者は殺された風景とそれとは異なる新たな風景に引き裂かれてしまった。その「殺風景」をどのような風景へと創生させていくのか。建築学や都市計画の専門家として考えてきたことを基に、風景をつくりだす「作法」のあり方を書いた。その一つがコミュニティ・アーキテクト(タウンアーキテクト)制であるといっている。
*アジア研究三部作の完成
布野のこうした一連の住宅論や風景論はアジアの住居論と無縁ではなく、それとの関係で論じられていることだ。ここでもう一度アジアに触れる。
『アジア都市建築史』(2003年)は編著だが、主要部分は布野が書いている。1995年設立の「アジア都市建築研究会」で「世界建築史」のテキストがほしいということでつくられた。仏教、中華、ヒンドゥ、イスラームなど、これだけ広範囲に書かれたものはないのではないか。
そのほかに『大元都市』(2015年)で中国都城を、『景観的作法』(2019年)で中国についても書いている。さらに『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(2006年)、『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容』(2008年)がある。
布野がアジア三部作(『曼荼羅都市』2006年、『ムガル都市』2008年、『大元都市』2015年)と呼ぶ著書については、市川紘司の聞き書き「日中建設交流史」(2023年9月)で、次のようにのべている。
中国については、1972年の日中国交回復を受けて、建築学会の先生方が続々訪中した。内田祥哉、稲垣栄三、鈴木成文、尾島俊雄などだが、まだその頃私は中国は無縁だった。1991年に京大に赴任すると、ドクターコースに中国からの留学生が2人いた。そうした関係で初めて中国へ行ったのは1995年。次が外務省の講演依頼で1999年。「日本の現代建築」という題で北京、西安、広州を回った。そして2000年代後半から訪中が増える。それは滋賀県立大学の布野研究室で学位をとった学生がいて、そこから中国研究が広がっていった。
そして「『大元都市』(2015年)を書くが、その前にインドの都城の系譜を『曼荼羅都市』(2006年)で書き、続いてインド・イスラーム都市論の『ムガル都市』(2008年)を書いた辺りからユーラシアの都城の系譜に見取り図ができあがっていった。そうすると残るのは中国都城の系譜だということで『大元都市』を書いた。」とのべている。
*「近代世界システムと植民都市」で都市計画学会賞受賞
この間の活動は、まるで孫悟空のように自由自在に飛び回っている。そしてアジア三部作に先立って、編著だが布野がほとんどすべてを書いた『近代世界システムと植民都市』(2005年)がある。2006年日本都市計画学会論文賞を受賞した。
授賞理由に、「17、18世紀のオランダ植民都市の分析から、近代世界の形成過程の解明という歴史的課題、植民都市の空間形成と変容に関わる都市計画的課題にアプローチすることで独創的な論の展開に成功している。植民都市に関する既往研究は少なくないが、それらと比較しても個性ある力作である。(略)この研究は世界の都市を複眼で、しかもパースペクティブにとらえたい人にいくつものヒントを与えてくれるであろう。」としている。
*東南アジアの住居論へ
これらの研究が東南アジアへと向けられていき、『東南アジアの住居―その起源・伝播・類型・変容』(2017年)に結実していく。
東南アジアを歩き出して約40年、最初の成果が建築学会賞論文賞を受賞(1987年)、そのエッセンスをまとめたの『カンポンの世界』(1991年)、それを書いてから30年になる。
「東南アジアの民家(ヴァナキュラー建築)については『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究』(主査:布野修司)(Ⅰ:1981年、Ⅱ:1991年)以降、『アジア都市建築史』(2003年)、『亜州城市建築史』(2009年)、『世界住居』(2010年)などで概観してきたが、ようやく独自に本書をまとめることができた。」とのべている。◆600行
本書は「壁のない住居―タイ系諸族の伝統的住居」を、建築人類学などをベースに、いま残る土着的住居を分析。タイ系諸族の住居形式は、総じて「壁」のウエイトは軽い。ポーラスで大きな気積の住居が成立したのは熱帯・亜熱帯の環境が大きい。精緻な開口部のディテールを発達させる必要はなかったのである。」としている。
そして近著が『スラバヤ―東南アジア都市の起ン』(2021年)である。
「スラバヤを久しぶりに訪れたのは2015年7月。2006年に訪れてからの10年間は、大元都市や曼荼羅都市、ムガル都市のアジア都市三部作が完成、ひと区切りついた年だった。そこでカンポン研究の原点に戻ってスラバヤの現状と将来展望を書いた。」
これらの研究書は、驚くべきことにいずれも500頁を超える大著である。
*新たな媒体で次世代へ継承
建築界の閉塞状況についてはどうか。
「いまの若者は、とにかく忙しい。食べるのにも忙しい。大手設計事務所やゼネコンの下請けで食べている。大学にいても忙しく、なかなか研究に没頭できない。そうした状況をどう変えるか。紙媒体も含め、いろいろと可能性のある情報発信の場をつくり、次世代へ継承していきたい。」
布野ほど多くの建築家や研究者と交流した人はいない。テーマも建築ジャーナリズム、アジア研究、住居論を精力的に書いた。それらは連環している。そしてオルガナイザーとしても活動、すぐれた弟子も育てた。活動は半世紀に及び、いまでも続けている。そのことで壮大な「布野ワールド」をつくりあげたといえる。
そうした方向へ向かわせたのは先述したように、大学院生時に「近代の呪縛を放て」を通して吉武計画学を超えて、いかに近代を超克するか、その原点につねに立ち返っていく。反近代とはなにか。反モダニズム建築とはなにか、建築ジャーナリズムもアジア研究も住居論研究も布野思想の原点だから語り出すと終わることはない。
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□略歴
ふの・しゅうじ
1949年8月生まれ。1968年4月東京大学教養学部理科Ⅰ類入学。1972年同大学工学部建築学科卒業。1974年3月同大学修士課程修了。1976年4月同大学博士課程退学。
職歴
1976年東大助手。1978年東洋大学講師。1984年同大学助教授。1991年京都大学助教授。2005年滋賀県立大学教授。2012年同大学副学長。2015年日本大学特任教授。同年北京大学客員教授。2018年西安工程大学特任教授。2020年日本大学客員教授。
滋賀県立大学名誉教授。2022年日本建築学会名誉・終身会員。
主な著書
『戦後建築論ノート』(1981年)、『スラムとうさぎ小屋』(1985年)、『住宅戦争』(1989年)、『カンポンの世界』(1991年)、『戦後建築の終焉』(1995年)、『住まいの夢と夢の住まい』(1997年)、『廃墟とバラック―布野修司建築論集Ⅰ』(1998年)、『都市と劇場―布野修司建築論集Ⅱ』(1998年)、『国家、様式・テクノロジー―布野修司建築論集Ⅲ』(1998年)、『裸の建築家』(2000年)、『近代世界システムと植民都市』(2005年)、『曼荼羅都市』(2006年)、『ムガル都市』(2008年)、『建築少年たちの夢』(2011年)、『大元都市』(2015年)、『景観の作法』(2015年)、『東南アジアの住居』(2017年)、『進撃の建築家たち』(2019年)、『景観的作法』(2019年)、『スラバヤ』(2021年)など。
主な編・共著
『劇空間のデザイン』(1984年)、『現代建築』(1993年)、『日本の住宅―戦後50年』(1995年)、
『東洋建築史図集』(1995年)、『アジア都市建築史』(2003年)、『〈51C〉家族を容れるハコの戦後と現在』(2004年)、『世界住居誌』(2005年)、『近代世界システムと植民都市』(2005年)、『住まいの百科事典』(2021)年など。
主な訳書
『環境の空間的イメージ』(1976年)、『生きている住まい』(1997年)、『植えつけられた都市』(2001年)など。
主な受賞
『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』日本建築学会賞論文賞(1991年)、『日本当代百名建築師作品選』中国国家出版局優秀科技図書賞(1998年)、『近代世界システム植民都市』日本都市計画学会論文賞(2006年)、『韓国近代都市景観の形成』日本建築学会著作賞(2013年)、日本建築学会著作賞『グリッド都市』(2015年)。

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