建築編集譚―各誌歴代編集長の語るあの頃,布野修司

建築編集譚―各誌歴代編集長の語るあの頃,布野修司,建築雑誌,2024年6月

https://drive.google.com/file/d/1jJFPHzq2tT-LdC8MbMFYMo6-61QUhuF7/view?usp=drive_link

建築雑誌2024年6月号連載「建築編集譚」

=====タイトルパート====

建築編集譚

──各誌歴代編集長が語るあのころ②

布野修司

Series: Architecture Editor Story 2

Shuji Funo

『群居』創刊編集長

『建築思潮』創刊編集長

『建築雑誌』編集長

『建築討論web』立ち上げ編集長

聞き手・文:塩崎太伸

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=====年表パート=====

布野修司・建築メディア活動関連年表

1949年生まれ

1950年『国際建築』復刊(小山正和、平良敬一)

1957年   新建築問題

1960年『建築』創刊

1965年『SD』創刊(平良敬一)

1967年『国際建築』休刊

1968年           東京大学入学

1968年『都市住宅』創刊(植田実)

1968-74年「遺留品研究所」(大竹誠、中村大輔、村田憲亮、真壁智治(武蔵美))

1968-70s「コンペイトウ」(元倉真琴、松山巌、井出建(藝大))

1971-73年『TAU』創刊(石川喬司)

1970―           三宅理一、杉本俊多らと批評グループ「雛芥子(ひなげし)」の活動

1972年『神殿か獄舎か』(長谷川堯)

1975―76年『建築文化』「近代の呪縛に放て」シリーズ

1975年「建築思潮研究所」発足、『住宅建築』創刊(平良敬一)

1975年『建築の解体』(磯崎新)

1976年『日経アーキテクチュア』創刊(蜂谷真佐夫)

1976年『建築』休刊

1976年           東京大学博士課程退学、助手

1976-90年   「昭和建築研究会」→「同時代建築研究会」(堀川勉、宮内康、布野修司)

1978年           東洋大学講師

1978-1991年「鯨通信」(鯨の会,東洋大学)

1979年「平和な時代の野武士たち」(槇文彦)

1981年           『戦後建築論ノート』

1982‐2000年        創刊準備号82年12月 『群居』創刊83年4月(布野修司、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和「HPU」)

1983‐90年 『同時代建築通信』(宮内康、布野修司「同時代建築研究会」)

1984年           東洋大学大学助教授

1985年『新建築住宅特集』創刊(石堂威)

1986年『都市住宅』休刊

1987‐1989年 『建築雑誌』編集委員会幹事

1991年           京都大学助教授

1991‐1996年『SSF News』(サイト・スペシャルズ・フォーラムSite Specials’ Forum)

1992年『GA JAPAN』創刊(二川幸夫、石堂威)

1992‐97年 『建築思潮』創刊

1993‐1995年 『建築雑誌』編集委員会委員

1995年『PEN』『Casa Brutus』創刊

2000年           『群居』終刊

2000年『SD』休刊

2000年-~2005年 traverse『新建築学研究』Kyoto University Architectural Journal~

2001‐2006年 『京都げのむ』(京都コミュニティ・デザイン・リーグCDL)

2002−3年    『建築雑誌』編集長

2004年           ISAIA第5回シンポジウム実行委員長

2004年『建築文化』休刊

2005年           滋賀県立大学教授

2007‐2015年 『雑口罵乱』(談話室,滋賀県立大学)~

2008年『10+1』休刊

2012年           滋賀県立大学副学長

2014年-    『建築討論web』 初代編集長2014~2017年(No.01~13

2015‐2025年        日本大学特任教授・客員教授

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=====本文パート=====

──布野先生のご活動は幅広いですが、本日は建築メディア活動についてお話をお聞きしたいと思います。東京大学に入学されるのが1968年の学生紛争の年です。その頃はどのような状況でどのような建築メディアに触れられていましたか?

布野   僕が入学した1968年は、医学部の問題を発端に、7月頭から全学ストライキに突入します。講義は一年近くありません。クラスで毎日のように議論したんですが、自然に自主ゼミが立ち上がって、分厚い高木貞治の『解析概論』を読んだのを覚えています。建築学科に進学したのは1970年の後期ですが、丹下(健三)さんの「アーバンデザイン論」、吉武(泰水)さんの「建築計画学」を聴いた。建築の設計は、樋口清さん、広部達也さん、横山正さんからF.L.ライトについて徹底的に教わりました。雑誌を見出したのは大学院に入ってからですね。ただ、『建築評論』は渋谷の大盛堂にバックナンバーが並べてあって買っています。『建築』とか『国際建築』などは図書館ですね。『都市住宅』で毛綱さんの「給水塔の家」にインパクトを受けたこと、元倉さんの修士設計が扱われていたことを覚えています。修士の時に槇(文彦)事務所でバイトしたんですが、元倉さんがいて話したのを覚えています。他には平良(敬一)さんの『SD』も山田脩二さんの刺激的な写真を使っているのを見てましたね。あと宮内嘉久さんの『建築年鑑』も。

●「雛芥子」

──批評グループ「雛芥子(ひなげし)」●1●の活動は1970年からになります。活動のきっかけや内容はどのようなもので、どんな建築家や編集者と関わりがありましたか?また、同時代の建築運動、たとえば「遺留品研究所」●2●や「コンペイトウ」●3●からの影響はありましたか?

布野   雛芥子のメンバーと出会ったのは建築学科にしてからですね。一番のアジテーターは三宅(理一)さんだったですよ。東大闘争がだんだん収束して正常化していったときに運動は文化戦線に移行する。僕らは表現主義の映画上映会をしたり、音楽会や黒テントの芝居とかを安田講堂前でやるのをプロデュースしたりした。そういうことをやっていたら商店建築社の坂手(健剛)さん●E1●から『TAU』●4●に書かないかって言われて、「遺留品研究所」の真壁(智治)さんや大竹(誠)さん、「コンペイトウ」の松山(巌)さん井出(建)さん、柏木博さんなどと出会ったんです。修士課程は、僕は吉武研究室、三宅と杉本俊多は歴史研究室に入った。研究室では、三里塚の空港反対闘争●5●で、測量をしたり、木造住宅の移築をしたり、鉄塔の図面を描いたりなんてことをやっていた。おかげでたくさん単位を落としたけど、建築はずいぶん勉強しました。博士課程に入って、三宅、杉本のふたりが留学するというので、それまでの原稿料などを清算して一応「雛芥子」の活動は終わるんです。吉武さんが57歳で東大辞めて筑波大副学長になるんですが、「お前はドクターに行け」って言われて僕は鈴木成文研究室に移った。初代助手になるんですけど、あまり帰属意識はなくて好きにさせてもらっていました。

●『建築文化』「近代の呪縛に放て」

──その後、布野先生は建築ジャーナリズムの世界にも積極的に関わられますが、そのきっかけやバックグラウンドはどのようなものでしょうか?最初に関わられたのは1975年からの『建築文化』の特集「近代の呪縛に放て」シリーズかと思います。悠木一也●E2●という筆名で文章も書かれていますね。70年代の建築の状況とその後の布野先生の住まいへの関心につながる流れをお聞きできますか。

布野   白井晟一のサンタキアラ館について田尻(裕彦)さん●E3●に言われて書いた。そしたら白井さんがナンバリングされた函入りの作品集をくれたのはびっくりしました。田尻さんはすごい編集者でしたよ。早稲田のロシア文学科の出身で戦後の社会運動に関わってこられたんだけど、磯崎さんと同い年で、原さん以下、伊東豊雄さん、山本理顕さんなど建築家を随分エンカレッジされた。「近代の呪縛に放て」なんてシリーズ名もすごいけど『建築文化』の編集部に行くともう今日みたいに(笑)お酒が並んでいるんだよ。それで上の世代の建築家や編集者と飲みながらいろいろと言い合いながら誌面をつくっていった。今の人には想像がつきにくいかもしれないけれど、1973年のオイルショックはきつくて、東日本大震災のときの計画停電どころではなくて、銀座のネオンが本当に消えた。就職もなかった。博士課程に行ったのは4人しかいなくてそのうちの3人が雛芥子のメンバーだった。住宅の着工戸数は72年に190万戸だったのが73年には115万戸になった。編集部も取り上げる作品がなくて困っていた。そんな状況で、象設計集団も安藤忠雄も石山修武もその頃にデビューする。原(広司)さんが都市から撤退して「住居に都市を埋蔵する」●6●って書いたのもそういう背景がある。僕は日本の戦後住宅のモデルとなる51Cを設計した研究室に入ったからもともと住居には興味があった。アジアを歩き出したのも住居への関心からです。1979年に初めてインドネシアに行くんですが、その頃から大野(勝彦)さんを通じて内田研究室の安藤(正雄)さんらと住宅生産組織研究会という研究会を開始するんです。それが、『群居』創刊につながります。『群居』は大野さんがリードした雑誌です。

●『群居』創刊

──『群居』創刊当時(1982年)のことを詳しく聞かせてください。戦後の小住宅の試みの先に、70年代に入っていまお話しいただいたような住宅へのいくつかの試みがあったのだと思います。当時の商品化住宅への建築家たちのいくつかのスタンスや、都市に集まって住もうとするときの都住創やOHP運動のようないくつかの運動などについてどのような議論がありましたか?また、東京大学の吉武研、鈴木成文研での住戸計画研究の流れや、京大の西山夘三研との関係などもありましたらお聞かせください。

布野   『群居』は、当初年間4号の季刊の予定だったから、1つめは「建築家」の問題、2つめは「メーカーや産業」の問題、3つめは「住み手」の問題、最後に「インタージャンル」の問題という4つの柱をたてていたんです。創刊メンバーの4人は、HPU(ハウジング計画ユニオン)という建築運動体を標榜して動くんだけど、当初から個々の活動を展開するのが前提だった。石山さんはゲリラ的でコルゲートやったりバラック論やったり、渡辺さんは、意外に思われるかもしれないけど、建売団地を建築雑誌に発表した最初の建築家です。RIAの出身で、「標準住宅001」を発表したり、住宅には関心が高かった。大野さんは、大学院時代にセキスイハイムM1を設計した建築家です。プレハブとか工業化の問題に取り組んで、建設省の住宅局と連携してHOPE(地域住宅計画)を仕掛けたりした。都市型住宅のあり方を追求する一方で、地域住宅工房のネットワークを構築しようとするんです。僕は、住宅の問題を発展途上地域全体とくにアジアの拡がりの中で考えようとしてきた。京大の西山さんがつくった「地域生活空間計画」講座へ行くのは東洋大の後ですが、西山研究室の住宅研究の流れは学生の頃からもちろん意識してきました。何回かインタビューしたこともあったし、『群居』などに西山論も書いています。

『群居』は会員制で、会員からは4号分の雑誌代を先にもらって運営していました。最大2000人の会員がいましたから振り返ればたいしたもんです。ただ、制作費に回すので精一杯でした。最初は16ドットの印字だった。それ自体が珍しくて取材が来たりした。いわゆる「ミニコミ誌」という扱いですね。4人の活動や論考を『新建築』に載せてもらったり、面白いことをやっている奴がいるって『建築文化』に紹介してもらったりということはあったけど。

●『同時代建築通信』

──戦後建築ジャーナリズムの編集者として、平良敬一さん●E4●や宮内嘉久さん●E5●は社会と建築の関係に強く意識的に批評をしていました。また、「同時代建築研究会」の活動をご一緒にされていた宮内康さんからの影響も大きいと読んだことがあります。そうした上の世代と布野先生の世代の関係はどのようなものでしたでしょうか?

布野   平良さんも嘉久さんも宮内康さんとの「同時代建築研究会」を通じて知り合ったんです。嘉久さんとはもちろん親しかったんだけど、『地平線』という雑誌の創刊をめぐって決別するんです。嘉久さんは「建築ジャーナリズム研究所」を拠点として編集活動をされていたんですが、その所員であった植田実さん●E6●のパートナー松井晴子さん●E7●と重村力さんのパートナー有村桂子さん●E8●が給与など待遇問題で争議、結局、研究所は解散するんです。その後、嘉久さんは『燎』『風声』という建築界の大御所を同人とする小誌をつくるんだけど、それはバックにスポンサーがいて成り立つ同人誌だった。その後、「廃墟から」という完全な個人誌に行き着かれたんだけど、もう一度、建築雑誌をやりたいということで僕を含めた何人かを集められた。そこで、まず、自前でやるかスポンサーをつけるかっていう議論があった。それに加えて、特定の建築家は扱わないといった編集方針が嘉久さんにはあった。それで結局僕は抜けるんです。『地平線』は僕がつぶしたことになっています。その辺の事情は、福井駿さんの修士論文『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(京都工業繊維大学、2021)に僕へのインタビューが収録されています。自前のメディア『群居』に積極的に関わったのは、嘉久さんとの決裂が大きいんです。

平良敬一さんはどちらかというと作品を重視する人で、嫌いな人でも良い作品は良いという態度だった。平良さんと最初にあったのは「同時代建築研究会」のシンポジウムです(国家と様式 1940年代の建築と文化,浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一・同時代建築研究会 司会 堀川勉・岡利実,建築文化,198409など)。宮内康さんは研究室の先輩で、その同時代建築研究会でつくった『同時代建築通信』の題字は松山巌さん●E9●が画いた。

──ちょうど「同時代建築研究会」の頃(1976)に『住宅建築』創刊(1975、平良敬一)、『建築』休刊(1976)、『日経アーキテクチュア』創刊(1976)とメディアも激動ですね。書籍も『神殿か獄舎か』が1972年、『建築の解体』が1975年ですし、さきほどお話ししたような建築家の住宅の試みも1976年前後は数多くありました。

布野   「近代の呪縛に放て」も1975-77年ですね。『建築文化』で1930年代の建築についてまとめて、その後40年代、50年代と順にやっていった。その過程で平良さんに会ったんです。平良さんと神代雄一郎さんが打ち上げの飲み会で「人か作品か」で大議論していて、神代さんは人だって言っていた。その頃、神代さんは村松貞次郎さんに「巨大建築論争」●7●で三井ビルの青いコーティングシートを誤認したことを揶揄されていた。出会ってから、『群居』をやっている間も平良さんにはことあるごとに相談に乗ってもらってた。「2000部までいったらあとは減るだけだよ」なんて言われたりしながら(笑)。

『群居』は、和文タイプライター・スタイルのデジタイザーを使った。パソコンが出だした頃で僕はFM8。僕の学位論文(1987)は手書きじゃなくてプリントアウトしたものを切り貼りしたんです。1970年代は、ガリ版切って、ビラ貼って、立て看つくって、という時代。80年代はまだfaxもない。SNSの一言で炎上するという世界とはまったく別世界ですね。

●『建築思潮』

──平良さんが『住宅建築』を立ち上げるときに「建築思潮研究所」を発足されていたことで、『建築思潮』創刊の際に布野先生が「思潮」っていう名前をもらいにいったという話を読んだことがあります。『建築思潮』創刊号(1992年)には平良さんが「秘史」を書いていますね。

布野   秘史は実は僕が書いたんだよ。もちろん平良さんに話をしてもらってね。それで平良さんが亡くなられる数年前に書いた『機能主義を超えるもの』のなかの一部はこの「秘史」を手直ししたものが使われている。平良さんから「使っていいか」って聞かれた(笑)。「使っていいかもなにも平良さんが話したんだから」。とにかく、「建築思潮」って語を貸してくださいってお願いして、『建築思潮』を始めた。もともと建築フォーラム(AF)という企画があって始まるんだけど、主導したのは渡辺豊和さん。渡辺さんは建築をつくる一方で、かなりの本を書いているし、メディアマンだった。パナソニックから依頼を受けて建築関連の国際シンポジウムを企画するんだけど、その前に、僕がMCとして、文化人類学者の小松和彦さんと一緒に、平倉直子さん、高橋晶子さん、妹島和世さん、後藤眞理子さんをゲストにした連続シンポジウムをやった。国際シンポジウムには、C.アレグザンダーとか、L.クロールとか呼んだんだけど、その会議(環境のグランドデザイン,基調講演C.アレグザンダー,原広司・市川浩・布野修司(司会),19910226:都市のグランドデザイン,基調講演M.ハッチンソン,木島安史・伊藤俊治・山本理顕(司会),19910227:住居のグランドデザイン,基調講演L.クロール,大野勝彦・小松和彦・安藤正雄(司会),19910228:建築フォーラムAF,松下電器産業19910322)をまとめるメディアとして『建築思潮』をつくったんです。このころまだバブルの残り香があって、これから国際化か!っていう感覚があった。最初から5冊限定であったけど、多くの若手建築家にも書いてもらった。メディアは、若手に表現の機会を与える大きな役割があると思っているんだよね。

●建築学会『建築雑誌』『建築討論web』

──『建築雑誌』の編集長として関わられていた頃の問題意識はどのようなものでしたか?また、立ち上げに関わられた「建築討論web」において、立ち上げ当初でどのような議論がありましたか?

布野   『建築雑誌』の編集委員会ってすごくいい場所で、専門分化したいろんな分野が議論できるところなんです。僕は、編集長、幹事、平委員と3期6年やっているからいろんなネットワークができました。僕が編集長として関わっていた時は、分野ごとにテーマを決めてもらってやるんだけど、最初の号はすこし挑発的なテーマにした。以前は、1月号はだいたい「建築史」がテーマだったんだけど、僕は「建築業界に未来はあるか?」ってテーマをぶち上げた。そうしたらすごく文句言われたのを覚えてる(笑)。未来はあるか?って、ない!って言っているようなものだからね。でもそれくらい挑発的でインパクトをもたせたかった。

『建築討論web』の立ち上げの時、最初、僕は「建築批評」とか「建築文化」はどうかって言ってたんだけど、学会長だった和田(章)さんが「建築討論」がいいという。『建築討論web』は、日本建築学会のレビュー委員会の傘下にあって、『建築雑誌』や『建築論文集』(黄表紙)や『技術報告集』と同じところに位置づけられています。今の編集長も知らないんじゃないかと思いますが、建築学会賞(作品賞)があって、『作品選集』があるから、その裾野を拡げようということだったんです。『建築雑誌』の読者には設計事務所勤務の会員が多いから『建築選奨」の一次審査みたいな役割を期待しよう、裾野を広く、会員を増やす、そういうことだったんです。しかし、作品は集まらなかった。予算は200万円ぐらいで、現在もそうらしいですが?記事[S1] をつくるのに苦労しました。建築家は、予め批評されるのは嫌なんですね(笑)。でも本音としては『建築雑誌』本体の方も紙媒体からweb媒体に移行せざるを得ない事態が起こりうると思っていた。『建築雑誌』が電子ジャーナル化すれば、『建築討論』というメディアの位置づけを考えないといけないだろうね。

●『群居』休刊、建築メディアへの思い 「記録性」と「インパクト」

──『群居』の創刊の言葉が住まいのテーマの広がりに向けた可能性が語られていたのに対して、休刊の言葉は住まいについてよりもこれからのメディアの可能性が語られていたように読めました。

布野   本当は、僕は後継編集長を決めて『群居』は残したかった。けれど最終的には終刊ということになった。その後すぐに、現在も続いていますが、京大でアニュアルですが『traverse』をつくった。滋賀大では『雑口罵乱』という学生メディアをつくった。メディアをつくって「記録する」っていうことへのモチベーションは一貫していると自分でも思います。

──昨今の建築メディア、ジャーナリズムに対してのお考え、建築メディアが抱えていていまだ解決していないと思われていることなどをお聞かせください。A-Forumにて「建築とジャーナリズム研究会(AJ研究会)」を立ち上げられましたが、その設立趣旨で一般ジャーナリズムと建築ジャーナリズムでの建築の評価の違いについて述べられています。そのあたりのことなどお話しいただけますでしょうか。

布野   「記録性」というのは重要です。紙媒体が減っていくなかで、どのように建築の表現や議論を後世に残していくかは大きな問題です。僕自身も、自分で考えたこと、表現してきたことを、誰にでもアクセスできるかたちで残して死にたいと思います。未来の一人の読者に向けて、出来たら紙媒体として残したい。自分の弟子がやってくれないから自分でかなり整理していますよ(笑)。弟子も死ぬから心もとないよね。国会図書館とか建築学会は無くならないかもしれないけど、誰がどういう視点で編集したかが問題です。建築の分野はChat DPTとかディープラーニングのためのデータベースが貧弱だから、いくらAIに質問しても答えがほとんど信用できない。もっとしっかりとした資料が提供されないといけないと思っています。それが「記録性」の問題ですね。もうひとつは「インパクト」。社会に対してどういう発信をしていくか。どう力をもつかということですね。そうした「インパクト」の同時代性がどういうふうに「記録」されていくかを考えないといけないし、学会はその中心のひとつであるべきだと思っています。

AJ研究会でもなにかそうしたことができたらと思っているので、ぜひ塩崎君も参加してください(笑)。元気でいれば、次のメディアをつくりたい。建築だけではなくて、一般のジャーナリズムと区別のないメディアをつくって建築について議論したいと思っています。

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雛芥子(ひなげし)

杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、布野修司他による建築批評グループ。1969-74年まで活動。

東京大学工学部建築学科一九六九年進学の学生で結成。メンバーは杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、布野修司他。原広司『建築に何が可能か』、メルロ・ポンティ『知覚の現象学』など読書会を続けた。また、講演会、シンポジウムなどを組織した。ゲーテ・インスティチュートにある表現主義映画を全部借りてきて見たり、佐藤信や津野海太郎などの演劇集団「黒テント」を呼んで安田講堂前でテント芝居(緑魔子、石橋蓮司出演)をプロデュースした。夜は、先輩たちに、日本の建築産業をめぐる問題について連続講義を受けた。この頃の「雛芥子」の活動を記したのが、故坂手建剛編集長が創刊した『TAU』である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三・一)。続けて、「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[1]を書いたのが布野の建築ジャーナリズム・デビューである。

遺留品研究所

武蔵美の学生であった大竹誠、中村大輔、村田憲亮、真壁智治によるグループ。1968-74年まで活動。

コンペイトウ

東京藝術大学の学生であった井出建、松山巌、元倉真琴によるグループ。後に桜井淳と工藤卓が加わる。1970年前後に都市のファサード収集サーヴェイなどさまざまな活動を行った。

『TAU』

TAU (TRANS-ARCHITECTURE&URBAN)は1971年から73年にかけて4号だけ商店建築社から出版された雑誌。編集は石川喬司、坂手健剛ら。創刊号表紙デザイン等は遺留品研究所。

三里塚闘争(さんりづかとうそう)

千葉県成田市の三里塚という地区での成田空港の建設に対する反対運動のこと。

「住居に都市を埋蔵する」

原広司による論考。『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』住まいの図書館出版局(住まい学大系30)、1990年1990年出版の同名の書籍(住まいの図書館出版局)に収められている。初出は『別冊 都市住宅』住宅特集11 1975年秋号「線対称プランニングの成立条件と手法・線対称型住居のプランニング・住居に都市を埋蔵する」(●要確認)。「ものからの反撃-ありうべき建築をもとめて」(『世界』一九七七年七月号)

「有孔体の理論」は,もともと『国際建築』(一九六六年六月号)に「有孔体の理論とデザイン」として発表されたものであるが,「浮遊の思想」とともに『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』に採録され,若干手が加えられている。

巨大建築論争

神代雄一郎の「巨大建築に抗議する」(『新建築』1974年9月号)に始まる論争。超高層ビルをはじめとする巨大建築の非人間的スケールへの非難に対して、組織設計事務所側から林昌二「その社会が建築を創る」や池田武邦「建築評論の視点を問う」などの反論(『新建築』1975年4月号)があった。

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坂手健剛

『TAU』編集

悠木一也

布野修司の筆名。

田尻裕彦

1931生、『施工』創刊編集長、『建築文化』元編集長。

平良敬一

1926生、『住宅建築』創刊編集長、『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』『造景』編集、筆名:葉山和夫 

宮内嘉久

1926生、『THE JAPAN ARCHITECT』1956創刊担当、『国際建築』『建築年鑑』大谷幸夫と五期会など。筆名:灰地啓 

植田実

1935生、『建築』編集、『都市住宅』、『GA HOUSES』編集長。住まいの図書館出版局編集長。

松井晴子

1944年生、松井編集室代表。住宅雑誌、建築専門誌の編集を経て、現在、「住」に関わる取材執筆・単行本の企画・編集を行っている。パートナーは編集者の植田実。

有村桂子

1942生、パートナーは象設計集団の重村力。

松山巌

「コンペイトウ」メンバー。『TAU』などの編集に関わる。編集同人グループRメンバー。

東京都生まれ。東京芸術大学建築学科を卒業後、友人と建築設計事務所を設立して住宅設計に関わるが、その傍ら、建築雑誌に翻訳や紹介記事を執筆。事務所は10年ほどで閉じ、執筆に専念する。

1984年、評論『乱歩と東京』で日本推理作家協会賞受賞。建築論、都市論などで知られるがその後小説も書く。1993年『うわさの遠近法』でサントリー学芸賞、1996年『闇の中の石』で伊藤整文学賞、1997年『群集』で読売文学賞受賞。2000年、小説『日光』で三島由紀夫賞候補。伊藤整文学賞選考委員も務めた。

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=====参考文献パート=====

平良敬一、布野修司「建築ジャーナリズムの戦後50年」『GA』1995spring

布野修司「雛芥子の頃」『INAX Report』2006.10

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