記憶と沈黙
Memory and Silence in Japan
記憶と沈黙
How do Japanese artists respond to Japanese recent past?
日本のアーティストは日本の近い過去にどう応答したのか?
Goldsmiths, University of London ロンドン大学 ゴールドスミス・カレッジ
Dissertation MA History of Art 美術史修士論文
Akiko Funo 布野晶子 18/9/2003
https://drive.google.com/file/d/1WngBKvTxEMHReaB-7BVV71gfyD5Bsyb9/view?usp=drive_link
Memory and Silence in Japan
★序
21世紀に入ってわずか2年にすぎないけれど,世界は不安定であり続けている。合衆国の同時多発テロ,テロへの闘い,イラク戦争,パレスティナとイスラエルの衝突などの事件が続いている。こうした事件は,私に日本の20世紀の戦争について考えさせる。日本は近い過去について処理することなく今日に至っている。過去の忘却は大きな問題であるように思える。日本では,過去の記憶が抑圧され,歴史が隠蔽されているがために,記憶の場所としてのポストメモリーは限定されているように思える。記憶は曖昧であるが,歴史もまた,政府が記憶をコントロールする権力を持つが故に,別の意味で曖昧である。政府は沈黙を操作する。日本人の戦争の記憶は,罪の意識からわれわれの眼をそらす 様々なやり方で沈黙させられている。日本の残虐行為については,歴史教育において触れられないままである。日本はまた天皇の戦争責任についても沈黙したままである。
美術の世界でも,戦争画の問題は,戦後,公には隠されてきた。戦争画が以前よりしばしば公開されるようになり,その再検討が開始されたのはつい最近のことである。藤田嗣治は,積極的に戦争画を描いたのだが,1949年に日本を去った,あるいは去ることを強いられた。政府の,道具としての沈黙は,日本の内からのみならず外からも,課せられる。米国の検閲によって,原爆文学の出版は遅らせられるのである。しかし,「沈黙化」は沈黙のひとつの側面にすぎない。沈黙がポストメモリーの妨げになりうるのは事実であるが,同時に,ポストメモリーは,沈黙を通じて,経験(プラクティス)されうるのだと私は考える。記憶が曖昧であるのと同様,二重性をもつが故に,沈黙は曖昧である。沈黙は,言語の一部であると同時に言語の対立物である。沈黙は,隠されているもの,埋葬されているものを想像させる。私は,さらに,沈黙が過去を現在に保持する能力をもちうることを示唆したい。こうして, 言われないもの,言い得ないものを含む,もうひとつの沈黙の概念について考察したい。ポストメモリーも,また 表現出来ないものを意味している。すなわち,自己と他人の距離を示しているー 自己と他人が融合なく共存する 母体としてのポストメモリー。
日本の近い過去を扱う作品あるいは美術の実践(プラクティス)は,様々な仕方で沈黙にアプローチしているように思える。アーティストは通常戦争を扱わないけれど,専ら戦争に焦点を当てる美術家もいる。多くの美術家が,ヒロシマ,ナガサキを扱っている。殿敷侃(1942~1992)は,広島で実際に原爆を経験したアーティストである。彼は,20年の沈黙の後,原始爆弾の回想をもとに作品を制作し始めた。東松照明Shomei Tomatsu (1930~2012)は,過去の生存者,とりわけ長崎の生存者の写真を撮り続けている。東松の写真は,反―歴史への関心を惹きつけている。宮島達男(1957~)もまた,広島長崎に落とされた核爆弾に憑かれたアーティストである。宮島は,1995年以来,「時の蘇生・柿の木プロジェクトRevive Time:Kaki Tree Project」を開始する。それは消えゆく記憶への応答である。岡部昌生(1942~)の作品は,過去の記憶の活性化に焦点を当てる。彼の作品は,遺構が失われるとともに戦争の記憶が失われないようにその痕跡を残そうとする。村上隆(1962~) は,おそらく日本のみならず西洋でも最も著名な日本の現代アーティストである。最近,彼は壁画「タイムボカンTime Bokan」 (1999)を発表した。この絵画は,核爆弾の再現を問おうとしているように思われる。
公式の歴史の隠された部分に触れ,沈黙を破ろうとする美術の実践(プラクティス)もある。柳幸典(1959~)と嶋田美子(1959~)はともに,日本の不愉快な,隠されたあるいは抑圧された歴史に触れる。嶋田は,自らの作品の中の抑圧された歴史を明らかにし,柳は現代日本の沈黙の曖昧さに焦点を当てる。若い会田誠(1965~)は,1995年から翌年にかけて,過去と現在の関係に注目する一連の「戦争画再び」というシリーズを作製した。
私は,記憶,歴史,ポストメモリー,そして,沈黙という概念について考察することによって,日本の近い過去がいかに抑圧され,沈黙させられてきたかについて議論したい。そして,日本の近い過去,すなわち第二次世界大戦を扱う作品あるいは美術の実践(プラクティス)について議論したいと思う。
★歴史
近い過去について語ることは,とりわけ第二次世界大戦に敗北した日本においては難しいのであるが,戦争の記憶が消えつつあることは日本にとって決定的である。戦争で様々な残虐行為が行われた,そしてそれぞれの殺戮行為は比較できない。さらに,ドミニク・ラ・カプラが指摘するように,臣下の立場は過去の談話を抑制させる。ラ・カプラは,ホロコーストについて,歴史家あるいは分析者が,生存者か,生存者の親戚か,元ナチか,元ナチ共働者か, 元ナチあるいは元ナチ共働者の親戚か,生存,参加,共働とは直接関与しない若いユダヤ人あるいはドイツ人か,この問題に対して比較的「アウトサイダー」であるかによって,公式に明らかにされた談話の意味についてさえ異なることについて議論している(Friedlander, 1992: 110). 私は,これは日本の場合も,おそらくどんな場合でも,当て嵌まると思う。日本の場合,戦争に行った人か,軍隊にいたけれど現実の戦闘には参加しなかった人か,ヒロシマ・ナガサキの生存者か,生存者の親戚か,戦争を体験しない若い世代かによって異なる。私は,日本人として,戦争を全く経験しないひとりとして,第二次世界大戦後に産まれた両親をもつひとりとして,日本の近い過去を考えてみたい。
私が初めて日本の歴史を学んだのは11歳の時である。それ以来,何度か,日本史そして世界史を学ぶ機会があったけれど,私は,日本の最近の過去,すなわち20世紀の歴史を学ぶことはなかった。私が日本史で最も覚えているのは原始時代である。先生たちはいつも原始時代にウエイトを置いて,20世紀の歴史については年度の終わりになって時間がなくなるのが常であった。次の年も同じである。全て再び原始時代から始める一年前の繰り返しである。誇張しているかもしれないけれど,原始時代については多くのことを覚えているけれど,近い過去の歴史についての知識が限られている私の記憶からはそうである。
私は,日本の近い過去,日本の歴史,広島長崎に落とされた原子爆弾のことを忘れ去る恐怖を感じる。日本のひとたちがそれらを忘れる恐怖を感じている。それは,私が不在の記憶を持っているからだと思う。日本の歴史には曇らされた多くのことがあることを知っているのに,日本の歴史について多くを学ばなかった記憶があるという意味である。記憶は,われわれの生活にとって,極めて基本的である。記憶がなければ,われわれは,記憶することも忘れることもできないのである。記憶は「現在,過去を再現するために働いている」 (Antze and Lambek, 1996: xxiv)のである。しかし,記憶が曖昧であることは確かである。記憶は常に既に選択されたものである。「記憶は,経験から生み出される, そして次に,それを再成形する」(ibid: xii)のである。つまり,記憶は,起こったことと想像されたことの間の場所を占めているのである。このことは,歴史もまた同じように常に既に選択されたものであるように,記憶が全く信頼できないということを意味するわけではない。記憶は,政府がわれわれから奪い去ることの出来ない何ものかであるが故により強力であるように思える。
私が日本の近年の歴史の多くを学ばなかったために,政府は歴史をコントロールしてきた。曖昧なのは記憶のみならず歴史もまた曖昧である。ジャック・デリダが議論するように,政府は,アーカイブを解釈する権力を持っている(Jacques Derrida 1995: 2)。「 記録集は,必ずしも常に論説的な文章ではないが,特権的な「トポロジー」のおかげで,アーカイブというタイトルの下に分類され,保存されるのみである。それらは,この共有されない場所,すなわち,この法と特異性が特権的に交差する選択された場所にあるのである」(ibid.: 3)。 トリン・T.ミンハもまた,「歴史的分析は,物事の装われた秩序の再構築と再配分以外の何ものでもない。例え,記念物へと変換され,凍結された記録集の解釈においてもそうである。歴史の書き直しは,それ故,終わりのない課題なのである。」といった議論している(Trinh T. Min-Ha 1989: 84)。「記録し,収集し,分類し,解読し,分析総合し,解剖し分節することは,既に,「構造を挿入すること」であり,構造的活動であり,精神を構造化することであり,全体的考え方なのである」 (ibid.: 141)。
大文字の歴史は,家父長制の概念を示す家父長の物語である。それは記録集に基づいて構築される。しかし,唯一の歴史があるわけではない。多くの歴史がある。歴史的な事実は沈黙に取り囲まれており,沈黙は別の歴史を含んでいる。ミンハが議論するように「文学と歴史は‘かつて/今なお’物語で‘あった/ある’;これは,それらが形成する空間が未分化ということを必ずしも意味するのではなく,この空間が異なる一連の原理によって表現されること,事実の階層的領域の外側に立っていると言われるかもしれないものを意味するのである」 (ibid.: 121)。物語が歴史となる時,「それは事実と蓄積に浸り始めるのである」 (ibid: 119). われわれは常に過程である歴史,「終わりのない,中間もない,始まりもない,出発もない,止まることもない,後ろにも前にも進むこともない,別の流れに流れ込むひとつの流れでしかない歴史を必要としている」(ibid.: 123)。
★ポストメモリー
戦争の記憶は,私の経験から生み出されるものではない。戦争を体験しない人びとは,他の人びとの記憶を通じて自分自身の記憶を構築することができるだけである。ポストメモリーとは,マリアンヌ・ヒルシュMarianne Hirschによれば,「生存者の子どもの,文化的集合的トラウマをもつ両親の体験と自分が育った物語やイメージとしてのみ「記憶する」,それ自体で記憶を構成するほど強力で途方もないな経験との関係」を記述する用語である (in Bal et al. (eds.), 1999: 8)。 しかし,ヒルシュがさらに議論するように,ポストメモリーは,「アイデンティティの場所にあるのではなく,すなわち,単に個人的な記憶,アイデンティティ,予測の行為ではなく,文化的であり公的であることによってより広く利用可能である記憶の空間にある」(ibid.: 8-9)。それは「正確には,その対象すなわち源泉との結合が,回想ではなく,予測,投資,そして創造によって媒介されるが故に,記憶の強力な形式である (ibid.: 8)。しかし,日本の場合,ポストメモリーの行為は制限されているように思える。
日本は自らの歴史を扱うことなく今日に至っている。日本の近い過去の記憶は,「何も言わないで沈黙を強いる無言の実例」(Foucault, 1984: 17)の下にあるように思える。政府は,過去の記憶を沈黙させ,抑圧する権力を行使してきたのである。日本人の戦争の記憶は,われわれの眼を罪悪感からそらす様々なやり方で沈黙化されている。上述のように,歴史教育は日本の残虐行為について沈黙したままである。教師は,政府が曖昧であるため,歴史を教えることができないのである。戦前の日本を賛美し,南京大虐殺や慰安婦などの残虐行為を否定する日本の歴史教科書をめぐる論争がある。
日本はまた天皇の戦争責任についても沈黙したままである。 天皇制は日本社会に深く根ざしている。天皇は第二次世界大戦後に「人間宣言」を行うまでは「生き神様」と見なされてきた。そしてさらに,天皇=支配構造は依然として存在しているのである。天皇制は,今日,表だって支配する政治権力ではない。通常は表面に現れない政治権力である。それは規範とみなされている。権力は沈黙の内にあり,沈黙の故にあり続けるのである。戦争遂行に当たった天皇裕仁が,公式には無罪とされ,戦争責任をとらなかったことが,私が思うに,日本人の歴史無知の理由のひとつである。Reiko Tachibanaは次のように言う。
「天皇の戦争責任についての沈黙を維持することは,神である天皇の子である日本の兵士や市民は選択の余地なく従うしかなかったと信じることによって(あるいは信じるふりをして),日本人自身の責任も否定することを可能にするのである。占領期に,父=天皇がその存在根拠を失った時,この概念は転移し,一時的に,民主的な父と「マッカーサーの子」として受け入れられた。新たな父親が自分たちの父親の無実を主張したことによって,そして天皇を平和主義者として描いた日本政府の戦後の情宣によって,父親は戦争中に軍の指導者によって裏切られたのだということを容易く信じ込まされたのである。」(1998: 10-11).
★戦争画
アートの世界では,戦後,戦争画もまた,公の場からは隠されてきた。戦時中,とりわけ太平洋戦争中に,数多くの戦争画が情宣のために描かれた。絵の具やカンバスなどの材料の配給量は,アーティストがどれだけ軍と協力しているかによって異なった。第二次世界大戦後,戦争画は公的な場から消え,日本の戦後美術史からも消されてしまっている。戦争画は,第二次世界大戦後30年以上もの間公開されなかったのである。アメリカは,第二次世界大戦直後に戦利品として153の戦争絵画を没収し,それらを東京の国立近代美術館に収蔵している。戦争画は6年間収蔵されたが,日本政府はその存在には不快であったと思われる。そして,その不快感は,ウインストン・チャーチルの『第二次世界大戦』に戦争画が挿入されることによってさらに増す。1951年6月24日,突然,数台のアメリカの軍用トラックが博物館に横付けされ,戦争画は消え去ったのである。戦争画はアメリカに持ち去られ,ほぼ20年間保管される。戦争画はアメリカから日本に返還されたが,再び,封印される(筆者訳, 針生一郎, 1979: 32-34).
積極的に戦争画を描いた藤田嗣治は,1949年に日本を去る。多くのアーティストが,敗色が濃厚になるにつれて戦争画を描くことを断念したにも関わらず,藤田は,サディスティックにそして必死に絵を描き続けた,そして実際,彼は絵を描くことを止めることができなかった(筆者訳, 菊畑, 1978: 41). 「アーティストの倫理的問題」と軍事政権との共犯関係は,東京裁判で罰せられ,公職を追放された戦争犯罪とはまったく別のものであった(針生, 1985: 24-25)。藤田は責めを受けるべきひとりであった。同じく戦争画を描いた内田巌は,1947年に,藤田に対して,藤田は「戦争アーティストを扇動する役割を果たしたという理由で,日本美術協会に公式に非難されるべきだ」といっている (針生前掲書ibid: 24). 藤田は最初アメリカに行き,そしてフランスに行った。後にフランス国籍を取得し,クリスチャンになった。そして,二度と日本には帰国しなかった。美術評論家として,針生一郎は,「藤田をスケープゴートとして利用することによって,多くのアーティストは,自身の罪を明らかにし,彼ら自身の倫理的責任の問題を完全に忘れることができた」という(ibid: 25)。
近年,戦争画は過去よりしばしば公開されようになった。そして,戦争画の再考が開始され始めた。 美術評論家の椹木野衣は,「われわれが戦争画について考えるべきは,戦争画を描いたアーティストを倫理的観点から非難することでも,戦争画を主観的な価値判断を棚上げして形態分析することでもない。そうではなく,そのような偽りの正義,美学,歴史そして恐怖を,何の疑問もなく描写することを可能にした実践が,近代性を隠蔽する中でどのようにして生まれたのかを考えるべきなのである。」 (筆者訳, 1998: 334).

図.1, 藤田嗣治 アッツ島玉砕 1943
戦争画は,人々の生活,人々の闘争,人々の貧困を削除し,イデオロギーから生み出された崇高で英雄的な歴史的シーンを描いた。そうした意味で,椹木は,戦争画の「明」と人びとの生活の「暗」という用語を用いる。しかし,藤田の「アッツ島玉砕」(1943) (図1)には「暗」がある。兵士たちは,全く動けない薄暗い空間で,もみ合っており,敵味方は確認できない。 闘いは格闘となり,兵士たちはばらばらになる。椹木が議論するように,「アッツ島玉砕」は,藤田があまりにも狂信的に描いているが故に,「正義,歴史,美学の根拠のないことを明らかにしている」ように思える。こうして,この絵は「明」の内部に「暗」を含んでいる。今日,日本は経済的に発展し,戦争放棄の憲法9条のもとで平和国家と思われているかもしれない(小泉首相は,最近,国連決議無しにイラクに自衛隊派遣を決定したのであるが)。しかし,日本は,頭を砂の中に潜り込ませて,平和主義の名の下に戦争の記憶を隠蔽しており,イデオロギーに支持された戦時中と同じ明るさを維持しているように思える。すなわち,今日の日本もまた,明るさの内に暗さをもっている。日本は,戦時中とは異なったイデオロギーによって支持されている。そのイデオロギーは過去の隠蔽から成り立っている。
★沈黙
政府の道具としての沈黙は,日本国内だけではなく,国外からも課せられた。沈黙を操作するのは日本政府のみならずアメリカ合衆国である。原爆文学 の刊行は合衆国の検閲でが遅らされた。例えば,大田洋子の『屍の街』(1948)は,1945年に書き終えられていたけれども,検閲を受け,出版には3年を要した。 しかも,出版社は,検閲を受けて,第2章のタイトルを「表情のない顔」とした(Tachibana, 1998: 44). 大田は,自伝的な短編小説の中で,アメリカの将校の尋問について述べている。彼は,彼女に一体誰がどんな外国人がこれを読むのかと尋ねた。そして,彼は,「原爆の記憶を忘れて欲しい。アメリカは原爆を再び使うことはないから,ヒロシマの出来事を忘れて欲しい」と言って尋問を終えた(ibid.: 272)。たちばなは,「政府が第2章を受け入れられなかったのは,大田の原子爆弾の効果についての記録のみならず,爆弾が終戦の原因というよりむしろ終戦を記したのだという彼女の評価であった」という (ibid.: 44)。
政府によって課せられた沈黙は,日本におけるポストメモリーの行為を制限する大きな効果を持った。フーコーが議論するように,「実際に[人びとを]支配するためには,言語のレベルでそれを従属させ,言論の中でその自由な流通を制御し,言われた事からそれを追放し,そしてあまりにも目に見えて存在する言葉を消すことが必要である」 (Foucault 1984: 17)。政府は,事実を消滅させることができるかのように,その事実を沈黙させるか,あるいは隠すことを選択するのである。ここで沈黙は,「官僚,デマゴーグ,そして独裁者の道具」として用いられるのである (Haidu in Friedlander (ed.), 1992: 278). しかし,この沈黙の概念はその一面にしか過ぎない。私は,沈黙は記憶同様曖昧さと流動性を持っているが故に,沈黙には可能性があると思う。
ピーター・ハイドゥが議論するように,「沈黙は言論の反世界であり,少なくとも多価値的で構成的で脆いものとして…。 沈黙は言論の単なる不在である場合もある。 別の時には,それは言論の否定と意味の生産の両方でもある」 (ibid.)。 沈黙は,イエスもノーも意味することがありうる。沈黙は承認でも無知でもありうる。沈黙は,「それ自身の文脈の中で,それ自身の告発の状況の中で判断されなければならない」(ibid.)。こうして,沈黙は,言語ではないけれど,言語の一部であるという二重性を持つのである。沈黙は「その反対物,言葉で囲まれている。 そして,沈黙は,言語の反対物,その矛盾であると同時に,言語を統合する部分である。 沈黙は,こうした意味で,言語自体が必要とする矛盾であり,言語の構成的な変更である」 (ibid.)。沈黙は「時間に縛られることも断片化されることもなく,曖昧で示唆的で,暗黙的かつ含意的である。」 (Kane, 1984: 19)。沈黙は,発言されたものと発言されないものの間の空間を占めているように思われる。
日本では,沈黙は政府の道具として用いられてきているが,常に発言されないものを含んでいる,すなわち,物事は沈黙しているけれど,そこにあるのである。「確定できない起こったことへの複雑な感情」(リオタールLyotard, quoted in Friedlander, 1992: 5)を伴う隠された過去が日本の長い沈黙の中にある。沈黙自体は重荷である。あるものは沈黙が破られることを心配し,またあるものは沈黙を破る瞬間を待っている,あるいは破ろうと試みている。私は,沈黙は,過去を凍結して封じ込めるよりむしろ,現在の中の過去を保持する能力を持っていると思う。ジャン・フランソア・リオタールが議論するように,「章句にすべき何かまだ存在しないものがある。この状態は沈黙を含み,それは否定的な章句であるが,また原則として可能な章句を求めるのである」(1988: 13)。沈黙がポストメモリーの妨げになるのは確かであるが,同時に,ポストメモリーは,沈黙によって経験(プラクティス)しうると私は思う。こうして日本の場合,ポストメモリーは,「人びとがそれとともに育ってきた「沈黙」としてだけでなく,より強力な,より記念碑的な,それ自体で記憶を構成するものとして「記憶する」体験」であり続けている。沈黙は,人びとに,隠されているもの,埋められているもの,そして水面下にあるものを想像させる。沈黙の記憶は,知らないでいることへの恐れを産み出しうる。私は,沈黙の質は,大きなリスクはあるけれど,開放性への可能性を持っていると考えたい。沈黙の故に,自身の記憶によって沈黙を破ろうとする人びとがいる。例えば,韓国の従軍慰安婦3人が,50年間の沈黙の後,1991年に日本政府に対する訴訟を起こした。「軍は,当初,慰安婦制度に対する責任を認めることを拒否した」。そして,「証拠書面によってこの高度に組織化された性的奴隷制の範囲,約13万9000人のアジア人女性を含んだ規模が示されると,政治家は,彼らを売春婦と見なして,女性に対する補償に消極的となった」 (Lloyd in Lloyd (ed.), 2002: 84)。
しかし,沈黙が政府に従順になると,沈黙の中には大きなリスクが存在する。 沈黙は,上述のように,歴史修正主義的な教科書のように現れる非合理な物語や談話を許してしまう。文化の分野でもそうした傾向がある。アジアにおける日本のポップカルチャーの人気は,日本の近い過去の歴史の記憶を終わらせる言い訳として使われる。沈黙が,日本人の歴史への無知を 引き起こしたのは事実である。私は,個人的に人びとが日本の近い過去を学ぶ場所があるべきだと思うけれど,政府の曖昧さには不安を感じる。しかし,嶋田美子が言うように,「活動家やフェミニストが過去に使用していた言葉は,もはや若い聴衆を動かすのに効果的ではない。二元論的修辞法は,すべてを白黒,正しいか間違っているかのように描き,個人あるいはグループを抑圧者か犠牲者に分ける傾向がある。それに代わって,われわれは,ジェンダー,民族,階級,セクシュアリティによる立場の違いによる複雑な差異のニュアンスを意識した社会的政治的問題について考える新しい方法を開発する必要がある。」 (ibid.: 189-190). さらに,単一の歴史への希求は,それを歴史化することによって過去の重石から解放される希求となるであろう。沈黙を意識することが 非常に重要である。沈黙に無意識なるとき,沈黙は忘却に代わる可能性があるのである。
★言語
第二次世界大戦の非人間性について考えると,歴史的事実の中に,書かれた歴史の中にさえ,十分に語られていないものがある。「言い得ないものを言おうとする,言葉にすることを妨げているものを伝えようとする,人類の歴史の中のユニークな経験を伝えようとする・・・書き手は,言語がそのためには不十分であることを発見する」(Kane, 1984: 103). 「屍の街」において,大田は,「地獄」という言葉を使いたくないと書いている。「その言葉は,彼女の恐怖についての語彙を使い果たすことになるけれど,地獄の怒りとしてこの場面を記述する以外の方法がなかったからである」(quoted in Tachibana, 1998: 49). 大田は言語の限界を示唆している。「地獄」という言葉は,「恐怖」を表現するのに十分ではないのである。沈黙は,言われなかったもののみならず,言い得ないものも含んでいるのである。「アウシュヴィッツの犯罪が歴史家に課す沈黙は一般の人びとへのサイン(警告,合図,前表)である。 サインは,認知の領域で検証可能な参照物ではなく,章句にすべき何かが,一般的に受け入れられている慣用句では表現することはできないことを示しているのである。・・・「アウシュヴィッツは絶滅収容所だった」という章句を取り巻く沈黙は,心の状態ではない。・・・それは,何か言い表されないもの,決定されない何かが残っているというサインなのである」(リオタールLyotard in Friedlander (ed.), 1992: 5). ここで,沈黙は,「単なる無言と同じではなく,言語が分解されていくやり方はそれ自体が重要であり,発話のプロセスでもある。」(LaCapra in Friedlander (ed.), 1992: 111).
テオドル・アドルノは,「アウシュヴィッツの野蛮の後で,叙情詩を書いてそれを和らげようとするようなことはしたくない」と言って,アウシュヴィッツ後の表現の不可能性を主張する。 (in Aroto and Gebhardt (eds.), 1998: 312). 彼は,まさにアートもそうであるように,現実の苦悩を表現することの不可能性を意味しているのである。ミンハが言うように,「自分自身の真の表現は常にフィクションとイマジネーションの要素を含んでおり,そうでなければ,表現はないし,あるいはただ死んだ,それ故「偽」の表現」しかない」 (1992: 168). リオタールもまた,表現不可能なものが存在するという。「歴史家は,章句の認知の領域に与えられた歴史の独占を打ち破るべきであり,歴史家は,その耳を知の支配のもとでは表現されないものに傾けることによって冒険すべきである」 (1988: 57). しかし,アドルノは,さらに,「この苦悩は・・・それを禁じられた持続的なアートの存在を必要とする。苦悩が,すぐに裏切られることなく,それ自身の声,慰めを未だに見出すことができるのは,事実上芸術だけである。」(in Aroto and Gebhardt (eds.), op.cit.)という。どんな残虐行為もその表現を必要とするジレンマを持つが,しかし同時に,それらを否定する。残虐行為は,その非人道性,その恐ろしさ,そしてその巨大さ(こうした言葉は決して十分ではありえないが)の故に,想像できないものである。
★ポストメモリアル・アート
ここで再び,ポストメモリーと言う概念についてみてみたい。上述のように,ポストメモリーは,回想から産み出されるのではなく,他人の記憶の投影である強力な記憶のかたちである。しかし,同時に,ヒルシュが言うように,ポストメモリーは,‘自分と他者の距離を意味する’のである(in Bal et al. (eds.), 1999: 9)。20世紀に起こったどんな虐殺行為においても,距離を残るのである。 「その時と現在の間,それを生きた人とそれを行った人の間の距離は,例え,対症療法的想像力がそれを克服しようと格闘するとしても,不滅であり,乗り越えられないままである。」(ibid.)。 ブラチャ・リヒテンベルク・エッティンゲルBracha Lichtenberg Ettinger は,自己と他者が融合せずに共存する象徴的な空間として,マトリックス(母体)という用語を用いる。彼女に拠れば,「マトリックスにおいて,共に出現する「私」と未知の「私」の間の出会いが起こるのである。それぞれが他人を同化も拒絶もせず,彼らのエネルギーは融合でも反発でもなく,連帯あるいは近接の範囲内での距離の継続的な再調整である。マトリックスは,最も親密な,そして最も遠い未知の人々の間の出会いの場である」(1993: 12)。ヒルシュはさらに「ポストメモリアル・アーティストの挑戦は,正確に言えば,観客がイメージを入力すること,惨事を想像することを可能にするバランスを見つけることであるが,それは,距離を消滅させ,特定の過去へのアクセスを可能にしすぎ,アクセスを容易にしすぎる,過度に適切な同定を許さない。」という。 (in Bal et al. (eds.), 1999: 10).
★ヒロシマ・ナガサキ
20世紀についての日本の公式の歴史がないために,つまり,それは未だ沈黙の中にあり,表面に現れてこないために,近い過去に応答するアートの実践(プラクティス)は,多様である。アーティストの過去に対する態度は世代によって異なるとも言える。もちろん,戦争を体験したアーティストと戦後に生まれたアーティストとの間にはギャップがある。私が扱いたいアーティストも様々な問題に関心を持っている。通常アーティストは戦争を扱わないけれど,戦争を基にした 仕事(プラクティス)をするアーティストもいる。ここで,私はヒロシマ・ナガサキを扱う作品をみてみたい。それぞれの作品がこのふたつの出来事にいかに応答しているのかは多様である。ある作品は 表現の不可能性を示唆しているし,ある作品は,記憶という行為,反=記念碑としての作品に焦点を当てているように思える。

図2, 殿敷侃, ケロイドKeloid, 1981
殿敷侃は,ヒロシマで実際に原爆を体験したアーティストである。彼はその時3歳であった。彼が爆発の記憶に基づいて直接爆撃を扱う作品を製作し始めたのは1975年になってからのことである。彼は,核放射線によって引き起こされた肝癌で1992年に53歳で亡くなる。 ケロイドKeloid (1981) (図2) は彼の作品のひとつである。赤みがかった,紫がかったグロテスクな絵である。この作品は,,もともとは,ギャラリー全体の壁を覆っていた大きなインスタレーションの一部であった。Tこの作品においては,ただタイトルだけが核爆弾に触れるだけである。この作品には言葉に言い表せないものがある。彼は20年の沈黙を破ったのだけれど,言表不可能性が残っているのである。おそらく,キノコ雲は彼にとっては無である。彼にとっては, ある実体は自身を表現し得ないのである。抽象性は,爆発への彼の近接そのものなのである。
爆発直後の混沌(カオス)は,原爆文学や原爆体験者の日記にも描かれている。例えば,長崎で原爆を経験した秋月辰一郎は,爆撃の日から敗戦の日までの1週間の体験を記録している。彼は,8月9日に「僕らは倒壊した家屋と燃え尽きた野原を裸足で走り抜けた。空は暗く,地面は赤い。まるで裸の男,血で染まった工場員,そして乱れ髪の女性がうろうろしている。誰もがどこかにただ逃れようとしたが,誰も何が起こったか理解していなかった。」と書いている。(quoted in Tachibana, 1998:35).
ヒロシマ・ナガサキの写真撮り続けるアーティストがいる。東松照明はそのひとりである。彼は1930年に軍事基地にごく近い都市に生まれた。アメリカの占領を経験して,彼は通常の中の異常さを体験した。戦時中,彼は,敵,アメリカ兵が如何に汚いか大人たちに聞かされてきた。しかし,彼が極端な空腹と貧困に苦しんでいたときに,彼にチョコレートやチューインガムをくれたのはアメリカ兵であった。世界は一方から他方へ転換し,彼は何も信じることができなかった。1950年に,彼は,当時のアメリカ兵やアメリカ日本の混血児の普通の人びとの写真を撮り始めた 。1960年に,彼は,反核兵器運動のためにナガサキの写真を撮ることを依頼される。翌年,長崎の人びと,場所,物事・・・など,普通の生活の写真を撮り始めた。彼は,再び,通常の中の異常さに出会う。彼は,原爆の生存者への支援の欠如,差別,仕事を得られないための貧困に直面するのである。彼の写真は,通常の中の異常さを示している。第二次世界大戦後,日本は,発展を遂げ,全国土の再建を果たしたことを装うが,それは白紙からのスタートでは不可能であり,アメリカの影の下においてであった。傷は埋められても,完全に消去することはできない。フロイドの「神秘的な手書きパッド」ように痕跡は残る。たちばなが言うように,「ある時代が終わり,新たな時代が始まったという主張とは対照的に,日本が見てきた事実は,過度の唯物論,民族的,人種的偏見,権威主義的制度,その他第二次世界大戦の勃発に貢献した文化的傾向の持続であり,それらは戦時中もその後も存在しているのである。これらの点について,新しい時代が始まったのなら,それは古いものに類似したものを邪魔するものを生んだのであり – そしておそらく新しい時代はまったく始まっていなかったのである。」(1998: 249). 東松の写真は,反―歴史に注意を引きつける。「午前11時02分長崎:浦上地区と遠くの岩屋山」 (1961) (図3)には, ひ弱な樹が立っている。この場所の近くには, 原爆の爆風で破壊された浦上大聖堂がある。東松のこの作品もまた,表現不可能性を示している。彼ができることは,喪失感の残る痕跡の写真を撮り,核爆弾が依然として存在する効果を示すことだけなのである。

図3, 東松照明, 午前11時02分長崎:浦上地区と遠くの岩屋山, 1961
広島と長崎に投下された核爆弾に捕らえられたもう一人のアーティストがいる。宮島達男は,1957年生まれで,17歳の時の修学旅行で最初に広島の原爆に出会った。 彼は核爆弾について何も知らないという事実に直面する。それ以来,ヒロシマで感じた不安を忘れることが出来なかった。アーティストとして,彼は,通常,3つのコンセプト,変化し続けること,全てと繋がること,永遠に続けること,に従って,LEDを使って作品を制作している。1995年以来,宮島は「柿の木プロジェクト」をスタートさせた。 それは,消えゆく記憶に応答するものである。宮島は,「人権を侵害する原爆とホロコーストがわずか半世紀前に起こったにも関わらず,その人間性に対する犯罪は薄れ始めつつある。われわれは,この犯罪を重要な教訓として記憶すべきである。われわれの記憶の失敗のひとつの理由は,今日の特に若者の日常生活が,その近い過去の悲劇的な出来事から排除されていることである。」という。実際,彼らは孤立化し,「閉じた歴史」となっている (復活タイム 柿の木プロジェクトWebsiteより)。宮島は,長崎に落とされた核爆弾から生き残った柿の木の苗木に第二の生命を与えた樹木医の海老沼博士出会った。宮島は,活き活きした緑の苗木に深く感動する。そして始まったのがこのプロジェクトである。柿の苗木は,賛同した世界中のホストに配布され,地元の人々によって育てられている。苗木は,長崎の記憶とともに世界中に伝えられ広まっていく。苗木を植えることは終わりではない。花を咲かせるまでには10年かかる。また,柿の木の成長とともに様々な活動を誘発する。柿の苗木は,現在への過去の現れであり,時空を超えて連続する。
岡部昌生(1942年生)の作品は, 過去の記憶を活性化させることに焦点を当てる。1977年以来,彼は,物の上に紙を置いて鉛筆あるいは木炭で擦ると物のかたちが浮き上がる技巧であるフロッタージュを始める。彼は,広島の路上に置かれた,写真をもとにつくられた原爆の廃墟のシーンを表す記念銅板のフロッタージュを作った。そしてまた,彼はまた,パリのユダヤ人のゲットーの門の上に据えられたホロコーストの犠牲者を記念して,「n’oubliez pas(忘れないでください)」と書かれたプレートのフロッタージュを作った。彼は,住民や通行人がフロッタージュに参加することを歓迎し,彼らの協力を結合しようとした。光の暗い顔The Dark Face of The Light (1996-2002)において, 彼は,広島の古い宇品駅の残骸から作品を創ろうとした。宇品駅は,日清戦争が勃発した1894年に軍用のために建設された。駅は,日本の植民地化の歴史が始まった場所であり,原爆が落とされた場所でもある。当時は,駅の残骸が広大な空き地に残されていた。岡部は,プラットフォームの切り石の間の隙間のフロッタージュをつくった。彼はフロッタージュという手法で痕跡の痕跡をつくったのである。古い宇品駅の残骸は,高速道路が建設されるためにまもなくなくなろうとしていた。この作品は,残骸が失われるとともに戦争の記憶が失われることのないように痕跡を残したのである。フロッタージュという行為は,記憶の行為であり,記念の行為である。それはまた,私には、彼は表面を剥がすことによって表面下にあるものを発見しようとしているようにも思える。宮島の実践のように、岡部の実践は、過去を現在にもたらす。彼らは過去を活性化しようとする。こうして、彼らの作品は完成品というより、プロセスなのである。植えるという行為、あるいはフロッタージュという行為は、結果より重要であるように思える。

図4, 村上隆, タイムボカン1999
村上隆(1962生) は、おそらく、西洋で、日本同様、最も著名な日本人現代アーティストである。 彼は、「オタクotaku」文化に焦点を当てる。オタクとは、漫画、コンピュータゲーム、そしてアニメーションに夢中になっている人々をいう用語であり、その用語自体は「家(お宅)」を意味するが、否定的な意味を持つ。彼はまた、「スーパーフラット」という用語を日本語の独自の概念としてつくった。彼は、スーパーフラット宣言において、「未来の世界は今日の日本のようにースーパーフラットに、なるだろう。社会、終刊。美術、文化、全てが極端な二次元的なものとなるだろう」という (2000: 5)。最近、彼はタイムボカン(1999) (図4)という壁画を展示した. 明るい赤とオレンジの図に、白い骸骨とキノコ雲が中央に現れている。西洋人には、特にアメリカ人には、それは、ただちに原爆のキノコ雲を連想させる。しかし、それは日本人にはそのようには作用しない。キノコ雲は西洋人にとって核爆弾のシンボルである。こうした意味で、この壁画は、空間そして時間における距離を得ている。それは核爆弾の外側からの見方であり、この空間的距離は、時間的距離をも示しているのである。日本人アーティストが外側からの視点で核爆弾を表現することは重要であるように思われる。この作品は、ヒロシマ・ナガサキを過去に凍結するように思われる。さらに、この絵のタイトルは、日本人の関心を核爆弾から逸らしてしまう。「タイムボカン」というタイトルは、爆発を伴う雲のような骸骨が毎回現れる漫画の名前なのである。 しかし、村上のこの作品の展示のしかたは異なっている。水戸芸術館で1999-2000年に開催されたグラウンド・ゼロ日本展で、村上はあるインスタレーションを展示する。 壁画タイムボカンとともに、彼は初期の作品、海風Sea Breeze(1992)を展示したである。海風は、スタジアムで用いられる16個のライトからなっている。シャッターが開くと、それは目映い光と熱を放つ。この作品とともに、タイムボカンは、突然、核爆弾とキノコ雲のシンボルとなるのである。このインスタレーションは、壁画に「タイム ボカン」というタイトルと「海風」を加えることによって、核爆弾のシンボルとしてのキノコ雲が外国人のみのものであることを強調しているように思える。これは核爆弾の表現を問題にしているように思える。さらにまた、われわれが常に爆撃のイメージに囲われていることを人びとに気づかせるように思える。
★大東亜共栄圏
それぞれの国は、その国自身の過去に対して、異なった態度をとる。ドイツと日本の第二次世界大戦の扱いは極めて異なっている。エルサエッサーElsaesserが言うように、「日本は、他の国々の人びとの記憶が、日本の「歴史」を外部の精査に開放することを要求しているという事実を、最近になっても反省していないように見える国である。一方、ドイツは、しばしばそうした精査を招くか、コンセンサスを得ることが出来ないあるいは争議の対象から除外することができない出来事を忘れることを他の人に許されてはいないのである。」(in Sobchack (ed.), 1996: 146). 戦後の日本の状況は複雑である。日本軍が行った残虐行為を認める前に、戦争が侵略であったのか、自己防衛であったのかをめぐって政治家の間で未だに論争が行われているのである。また、他のアジア諸国に対する責任を果たさないで広島・長崎に落とされた核爆弾については何も言えないという人びともいる。私は両方ともに同意しない。南京大虐殺のような残虐行為も広島長崎に核爆弾が落とされたことも、両方とも起こったことである。私の意見では、原因と結果はさほど重要ではない。過去がゆがめられ、忘れ去られる前に、記憶する行為が、日本においては非常に重要であるように思われる。歪曲と忘却は既に起こりつつあるように思われるのである。公式の歴史が隠蔽した部分に触れ、沈黙を破ろうとするいくつかのアート実践がある。

図5, 柳幸典, ワールドフラッグ・アント・ファームWorld Flag Ant Farm, 1990
柳幸典は、1956年生まれで、主として、国民(ネイション)、境界線(ボーダーライン)、制度(システム)という概念に関わる仕事をしている。ワールドフラッグ・アント・ファーム (1990) (図5)において, 彼は、それぞれ世界の国を表す国旗のパターンを色のついた砂で埋めた一連の相互に連結する箱を創った。彼はそれぞれの旗を他の畑とプラスチックのチューブで繋いだのである。そして彼は、全てネットワーク化された旗の間を食物や砂を運びながら旅することが出来るこのシステムの中へ蟻たちを放ったのである。こうした国境横断によって、結局システム全体で色が混ざり合うことになった。

図6, 柳幸典, ワンダリング・ポジションWandering Position, 1998
ワンダリング・ポジション (1998) (図6)において, 柳は、5m四方の囲いの中に一匹の蟻と自分を置いた。毎日数時間、アーチストは蟻のつくった跡を赤いクレヨンで辿りながら歩き回った。こうした作品で私の興味を引くのは、箱や5m四方の囲いによって表されたシステムあるいは限界についての意識である。蟻は、囲いの中のみで彷徨うことを許されていた。結局、蟻は演じることをプログラムされているのである。柳が言うように、「投獄された人々は自由を欠いており、彼らの活動はすべて管理され監視されているとわれわれは感じている。そして、われわれは、これはわれわれの日常生活のあり方と全く正反対だと思う。しかし、私は自問する・・・私が見ているものは何か?私が見ているものは私の意思で見ているのか?私が歩いている方向は私によって決定されているのか?私の考えていることは本当に私によって考えられているのか?何が人生の旅をつき動かしているのか?」(from a Website, Digital Art Resource for Education).

図7, 柳幸典, パシフィックPacificK100B (an installation), 1997
第二次世界大戦後50周年の頃、柳は、第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争に関心を向け始める。1997年に、彼はパシフィックPacific K100B (図7) というインスタレーションを製作する。彼はこの作品において、第二次世界大戦中に沈没した軍艦を再現した。さらに彼は、日本人にさえ知られていない未知の歴史に関心を向ける。彼は、1998年から、フィリピン海の海底に沈む秋津島と伊良湖という2隻の軍艦についてのプロジェクトを開始した。彼は、ヴィデオとスチール・カメラをもってフィリピン海に赴き、軍艦を捜索する数回のダイビングを記録した。ダイビングの軌跡は、図化されて小さなコンピューターでプリントアウトされ、赤い手描きの線は、沈没した軍艦へのアーティストの進路が描かれている。軍艦は、フィリピン海の美しい光景の下に沈んでいるので、戦争の記憶は隠されてしまっている。柳の行為は、何が沈黙させられているかを追い求める旅である。 彼は、彼の思いを隠喩的に演じているように私には思える。そしてまた、彼のプロジェクトは、海底から引き揚げたものが実際はどういうものなのか判別できない錆びた断片であるにも関わらず、過去を忘れることへの抵抗であるように思える。
柳の別の作品では、巨大な重い絨毯が部屋に敷かれている。それは、日本のパスポートのようであるが、中央に菊の紋章がない。ただ一片の花びらが残されている。他の花びらは散らばっている。まるで花びらを一枚ずつ摘み取って心が通じ合っているかどうかを調べる恋占いのように、それぞれの花びらには13の異なった国と地域;韓国、ミャンマー、ラオス、中国、カンボジア、ベトナム、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、ブルネイ、沖縄、日本の北のアイヌ、の言語で「愛している」と「愛していない」のタイルが貼られている。これら全ては、かつて第二次世界大戦中に日本が押しつけた大東亜共栄圏に含まれていた国・地域である。菊は皇室(日本帝国)のシンボルである。国のシンボルは普通パスポートに使われるが、日本はそうしたシンボルをもっていない。だから、皇室のシンボルが日本のパスポートに使われたのである。絨毯のもうひとつの面には、日本国憲法の第19条、第20条、第21条が刻まれている。各条は、思想、宗教、信仰、言論、表現の自由に関連している。 それらは見ることはできず、絨毯をひっくり返すのは重すぎる。壁には、河村清夫、東条兼太郎Kanetaro Tojo、深沢一郎、そして宮本三郎の戦争が掛けられている。パシフィックPacific K100B同様、それは記憶の引き金として働いている。日本は、解放の名の下に、絨毯の上の国々に侵入し、征服した。パスポートは特異な性格をもつ。 それは解放であり、制限でもある。あなたはパスポートとともに他の国々に行くことができるけれど、同時に、他の国々に行くためにはパスポート、国籍を持たねばならないとも言いうる。そのことはまた、日本人には、アイデンティティを表すパスポートが常に皇室(日本帝国)のシンボルをまとっていることを思い起こさせる。日本国憲法の第19条、第20条、第21条もまたまた矛盾をもっている。 各条は、自由を約束する制限である。柳は、戦争が隠されている事実を問題とし、それを差し挟むことによって日本国憲法の矛盾を示すのである。
★従軍慰安婦

図8, 嶋田美子, 慰めの家A House of Comfort, 1993

図9, 嶋田美子, ひと月の仕事A Month’s Work, 1995

図10, 嶋田美子, 慰安婦、服従する女性Comfort Women, Women of Conformity (from the artist’s book), 1994-5
嶋田美子(1959年生)も戦後世代のアーティストのひとりである。彼女の主要なテーマは、ジェンダー、権力、国家の問題であり、彼女の作品は、現代日本における性と消費主義の問題に集中している。 彼女は、「ナショナリズムと帝国主義が勃興した戦時中と日本がアメリカ軍に占領された戦後まもなくの時代、そして最近の、アジアにおける日本の現在の文化的地位」(Lloyd in Loyd(ed.), 2002: 84)を関係づける。彼女は、作品を政治的、歴史的、社会的文脈に置いて、日本人が自身の過去を無視するやり方を問おうとする。彼女の作品は、抑圧された歴史を明らかにする。彼女は、1993年以来従軍慰安婦を扱う作品を制作している。彼女の作品はかなり明示的である。「慰めの家」(1993)(図8)では、In A House of Comfort (1993) (fig.8), 軍の売春宿とアジアの売春婦が、中央に立っている韓国の慰安婦と並置されている。「ひと月の仕事」 (1995) (図9)は、「行列に並べられた600のピンクのコンドーム」からなっている。「これは、多くが性病の痛みに苦しんでいるにもかかわらず、奴隷労働制度のもとに奉仕することを強制された男性の数についての韓国の慰安婦の説明に言及するものである。」 (ibid.: 87)。彼女はしばしばセックスの対象としての女性、聖なる母としての女性を並置する 。手製の本「慰安婦、服従する女性」 (1994-5) (図10)では, 彼女は、左の頁に韓国の女性の顔を、左の頁に兵士の煙草に火をつける日本人女性を並置している。それぞれの図には説明が付されている。韓国人女性は、「かつて、私は50人の男性に奉仕しなければならず、とても疲れました。薬を与えられましたが、それでもぼーっと感じでした。そして、兵隊は火のついた煙草を私の鼻や子宮に差し込んだのです。」(筆者訳). 右の頁では、日本人兵士が、女性の親切に以下に感謝しているかを話している。彼が疲れると、彼女たちは兵士に煙草を与え、火をつける。兵士はまた、彼女たちがかけている白いエプロンがエネルギーを与えてくれるともいう。嶋田は、作品において、はっきりと、慰安婦の抑圧された歴史を明らかにすることによって、日本の近い過去を再考する必要性を主張している。同時に、彼女は、慰安婦問題は過去の出来事ではないという。「ひと月の仕事」はまた、現在、多くの非日本人がセックス産業に従事していることを示唆している。 彼女の作品は、「現代日本における女性のセクシュアリティと性の商品化に対する態度が、国、人種、性別の根深い問題にどのように関連しているか」を明らかにしている。 (Lloyd in Lloyd (ed.), 2002: 89).
★戦争画RETURNS
柳と嶋田はともに、日本の不愉快な、隠された、あるいは抑圧された歴史に触れている。嶋田は、彼女の作品において抑圧された歴史を暴き、柳は現代日本における沈黙の曖昧さに焦点を当てる。彼は何らかの手掛かりを求めて海に潜り、何かを手にするが、錆びた武器あるいは鉄屑を発見したにすぎない。そうした断片は過去について多くのことを語ってくれはしない。 こうして、彼は再び海に潜る。何か有具体的なものを発見しようとして決して手掛かりにならないという繰り返しである。事実が語ることはほとんどない。事実は決して十分ではない。

図11, 会田誠, 大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)Ohkimi no henikoso shiname (天皇の足下で死のうLet’s Die at the Emperor’s Feet), 1996
より若いアーティストの会田誠(1965年生)は、嶋田のように、現在と過去の関係に注意を向ける。会田は、1995年から翌年にかけて、「戦争画RETURNS」と呼ぶ一連の作品をつくった。そのシリーズには、学生服を着た日本人と韓国人の少女が国旗を掲げて向かい合っている「美しい旗」 (1995)、ニューヨーク市が燃え上がり、上空を戦闘機が無限という記号を描いて飛んでいる「紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)」(1996)、パルテノン神殿の像が広島の原爆ドームの像の上に置かれている「題知らず」(1996)、そして「大皇乃敝尓許曽死米」(1996) (図11)が含まれている。全ての絵は屏風に描かれている。
「大皇乃敝尓許曽死米」に焦点を当ててみたい。この作品にあるのは、ごちゃごちゃしたものである。背景には、旅行代理店の広告が貼り付けられている。それらは、虐殺の現場をトロピカルリゾートへと変容させた日本の観光客を魅了する南の島々の広告である。会田に依れば、死んだイルカが広告には描かれている。イルカは、集団自殺を表している。数百のイルカの死体が長崎の海岸で発見され、それを食べた地元の漁師たちは国際的な生態学者から厳しく批判された。「ジャップJAP」という言葉が、一頭を除いて、それぞれのイルカに書かれている。一頭のイルカには、文学者折口信夫の養子で、大戦中に南島で死んだ藤井春洋の「春洋(はるみ)」という名が書かれている。戦争中にラジオでBGMとして使用された軍歌の歌詞もデフォルメしたアルファベットで書かれている。
会田の「戦争画RETURNS」のシリーズは危険ともなりうる。シリーズはナショナリズムの叫びともみなしうるのである。 しかし、会田が表現したのはナショナリズムでは全くない。彼が表現したのは、現代日本の寄せ集めであり、カオスであり、脆弱性なのである。沈黙の中にあるのは、埋め込まれているのはカオスである。松井みどりがいうように、「「戦争画RETURNS」は、ナショナリズムを扇動する目的で作られたものではない。 会田の目的は、戦後民主主義の偽善を批判し、「不完全な近代」の無批判の継続が現在の日本人の意識に与えている結果を批判する機会として、日本の近代化の否定的な結果をもちいることであった。」(Lloyd (ed.), 2002: 154)。会田は、「戦争、差別、いじめの不可避性を認める。なぜなら、それらはエロティックな動機によって引き起こされるからである。このことを認識しなければ、それらを回避する効果的な方法を思いつくことはできない。「愛と平和」というスローガンを強要するヒステリックな理想主義は単に状況を混乱させるだけである。」という (quoted in ibid.: 164)。広告代理店の広告の寄せ集めは、会田の沈黙を破ろうとする試みであるように思われる。あるいはむしろ、過去を沈黙させることによってのみ存在することができる偽装された平和主義に対する彼の否定かもしれない。この作品において、広告の下に埋められているごちゃごちゃしたものは表面に現れている。
★結
結論。日本は第二次世界大戦で敗北し、多くの都市が廃墟と化した。全てが消え去った。更地の上に、日本は建物を、日本を再建した。結果として、日本は平和で経済的に豊かな国になった。しかし、平和で経済的に豊かな日本は、過去を沈黙させることによってのみ実現しえた。政府は、沈黙を利用し、歴史を抑圧してきた。それ故、ポストメモリーの行為は、日本では限定されてきた。政府による沈黙の利用とポストメモリーの欠如が日本人の歴史に対する無知につながったことは否定できない。20世紀の歴史は、歴史教育において沈黙のままであり、天皇裕仁の責任と戦争画は沈黙化されてきた。しかし、「沈黙化」は沈黙の一面に過ぎない。 沈黙は、言表されないものを含んでおり、また、発言不可能なもの、そして表現不可能なものを含んでいる。私は、沈黙をしたままでいることがいいと言っているわけではない。 むしろ、沈黙は、人々に、埋められているもの、ヴェイルに覆われているもの、隠されているものを想像させる力を持っていると思う。 沈黙がある限り、沈黙を破ろうとする行為がありうる。私が議論してきた、日本のアーティストの作品と実践は、様々なやり方で沈黙にアプローチしているように思える。殿敷侃の作品は、 彼自身の沈黙を破ることによって表現不可能性について示唆している。東松照明の作品は、原爆の生存者に関心を引きつけ、歴史もまた沈黙によって囲われていることを示している。記憶は曖昧であるが、公式の歴史、大文字の歴史もまた曖昧である。柳幸典は沈黙の背後に隠されている何かを探そうとフィリピン海に旅をした。嶋田美子は、過去を暴くことで沈黙を破る。宮島達夫は過去を現在にもたらし、日本社会の過去の曖昧さを問題にする。岡部昌生は、戦争の記憶を失わないために廃墟の痕跡を創り出す。村上隆はキノコ雲を故意に描くことによって、原爆のシンボルとしてのキノコ雲に疑問を投げかける。会田誠は、過去と現在の類似性に関心を引きつける。彼の作品において、沈黙の中にある寄せ集めは現在の表面に現れている 。こうして彼は、過去に向き合うことなく平和を叫ぶ日本を批判する。沈黙は、過去を過去として凍結するのではなく、現在の中の過去を保持する可能性をもっている。こうして、われわれは、常に沈黙に意識的であるべきである。われわれが沈黙に無意識になる時、 沈黙は、第二次世界大戦を忘れ去る真の脅威となる。(布野修司訳:未定稿)
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