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                           おしまいの頁で03

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

英語帝国主義

布野修司

 生まれて初めて英語で講義を行った。正直言って、英語はしゃべれない。そういう教師が、英語で、日本人を含めた学生を相手に、日本の大学で講義しないといけない。国際化とはいえ、大変な時代になったものだ。

 度々海外に出かけるといっても、僕の行くのはアジア諸国だ。宗主国の母国語が英語とは限らない。第二外国語どうしなら多少気は楽だ。一応、中学から英語を学習してきたのだから、片言ぐらいは喋れる。用は足りてきた。もちろん、冷や汗をかいた経験は数知れない。いきなり学部長会議のような場に出たこともある。単語を並べて誤魔化す。英語は度胸だ。国際会議に出る機会もあった。原稿を用意していって棒読みすれば三〇分ぐらい凌げる。講義を頼まれる。スライドがあれば、一時間ぐらい、なんとかなる。

 しかし、僕の場合、東南アジア英語である。ちゃんとしたトレーニングは受けていないから相当怪しい。だから、アジアといってもシンガポールのように、流暢な英語が飛び交う国は苦手だ。君の英語はテキサス訛だね、などという会話になると駄目。英語は自分よりうまいのが隣にいるとしゃべれなくなるのである。

 それでも英語で講義である。今年から始まった国際教育プログラムのひとつである。テーマは「二一世紀の都市」。十数回のうち二回を受け持った。一回は、発展途上国の都市問題、もう一回は京都の未来をテーマにした。立ち往生ということはなかったけれど、もちろん、冷や汗が出た。それでも、言いたいことを伝える経験にはなった。

 それにしても、国際化というと、何故英語なのか。負け惜しみのように思う。大英帝国がそれだけ偉大であったということである。米国が世界をリードしているということだ。ヨーロッパ諸国の統合によって、ますます英語帝国主義は強まるという。世界には、中国語やヒンディー語、スペイン語もあるのに、と思うけど、如何ともしがたい。日本では英語がまだしも親しいのだ。大学などにいると英語で冷や汗というのは逃れられないけれど、一般にはどうか。気がついてみれば、近頃の日本の流行り歌はほとんど英語ではないか。

 

『室内』おしまいの頁で199801~199912

◎01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

◎02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

◎03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

◎04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804,

◎05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

◎06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

◎07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

◎08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

◎09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

◎10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

◎11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

◎12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

◎13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

◎14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

◎15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

◎18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

◎19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,199907

◎20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

◎21日光,おしまいの頁で,室内,199909

◎22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

◎23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

◎24群居,おしまいの頁で,室内,199912

  

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804,

アンコールワット

布野修司

 遅ればせながら「アンコールワットとクメール美術の1000年展」(大阪市立美術館)を見た。正直、そうびっくりしなかった。本物のアンコールワットを見て驚いたことがあるからである。建造物の迫力は現地に行かないとわからない。

 しかし、今回の、ギメ国立東洋美術館とプノンペン国立博物館のコレクションが水準の高いものであることは間違いない。個々の仏像や神像は実に迫力があった。クメール美術の実力は相当なものだ。

 ヒンドゥーの神々を見分けるには、その持ち物、乗り物を見ればいい。四本の手に、円輪(チャクラ)、法螺貝、棍棒、蓮華を持つのがヴィシュヌで、乗り物はガルーダ(神鳥)。シヴァは虎皮を腰に巻き、蛇を首に巻く。ナンディン(牛)が控える。わかりやすいのは象の頭のガネーシャ。シヴァの息子で、知恵と繁栄の神様。馬の頭がヴァージムカ。ヴィシュヌの化身だ。ヴィシュヌは猪、獅子、亀、魚など多くに化身する。猿の姿はハヌマーン。孫悟空の原型になったとされる。ヒンドゥーの物語を思い浮かべながら、神々を品定めするのは楽しい。

 ヒンドゥー教など知らない、などというなかれ。仏教の世界にもその神々は忍び込んでいるのだ。梵天とはブラーフマンのこと。帝釈天はインドラ(雷神)だ。馬頭観音だってそうだ。京都の寺を歩きながらヒンドゥーの神々を見つけるのが楽しみになりつつある。仏像に興味を抱くのは年をとった証拠かもしれない。

 ところで「アンコールワットに感嘆するのは好事家の仕事」といった建築家が戦時中の丹下健三である。当時の新興建築家にとって、仏教やヒンドゥー教の八百万の神々の世界は魑魅魍魎の世界と思えていたのかもしれない。それに少し先立って、バンテアイ・スレイという遺跡から石材を運び出し、逮捕された(一九二三年)のがアンドレ・マルローである。さらに遡って、江戸時代にアンコールワットを訪れた日本人がいる。家光の命によってオランダ船に乗船した長崎の通詞島野兼了だ。彼はなんとアンコールワットを祇園精舎と間違えた。その話はかなり有名で建築家・伊東忠太が天皇にご進講に及んでいる。アンコールワットの世界最古の図面は日本人が残したのである。

 

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

ヤン・ファン・リーベック

布野修司

 オランダとインドネシアに行って来た。オランダは専ら大学、研究所巡り。インドネシアは建設中の実験住宅についての打ち合わせ。なんでそんな旅を思いつくかというと、インドネシア往復とヨーロッパ往復がほとんど同じ値段だからだ。近頃の航空運賃はわけが分からない。

 時差があって大変と思われるかもしれないが、飛行機の中ではどうせ飲みっぱなしで夢うつつだからどうということはない。今回の三〇時間を超える缶詰時間には、鈴木光司の『リング』『らせん』『ループ』の三部作を読んだ。

 ところで、オランダーインドネシアー日本は細からぬ歴史の糸で結ばれている。司馬遼太郎『オランダ紀行』を読んでみて欲しい。ライデン大学の一角に、壁一杯に芭蕉の句が書かれている建物がある。日本学は今でも盛んだ。シーボルトが太いパイプとなっている。

 歴史の綾は面白い。昨年、ケープ・タウンに行って、ひとりの興味深い人物を知った。ヤン・ファン・リーベックという。二〇歳で外科医の免許をとり、東インド会社の船にのった。一六三八年のことだ。バタヴィアに着いて、方向転換。商才があったらしい。一六四二年、会社の幹部とともに長崎の出島を訪れている。鎖国へと動き始めていた徳川幕府の動向を調査するのが目的であった。

 その後、トンキンで単独で絹貿易に従事するが失敗したらしい。再び出島に拠点を移したりしている。ところが、事件勃発。不正蓄財が発覚し、帰国命令をくらうのだ。かなりのやり手であったのだろう。運命と言うべきか、その帰途、彼はケープに短期間上陸している。そのことが、ケープ・タウンの建設を指揮することに繋がるのだ。

 アムステルダムに戻った彼は復活の機会を待ち続けた。そして、一六五一年、ケープの補給基地建設の指揮官に任命され、その機会をつかんだ。相当の才能があったのは間違いない。

 こうしてファン・リーベックというひとりの男によって、アムステルダム、ケープ・タウン、バタヴィア、出島が繋がる。ファン・リーベックは、再びバタヴィアに移り、オランダに帰ることなく没したのであった。

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

「秦家」

布野修司

 山本夏彦先生が戦後初めて京都にお見えになったと聞いて心底驚いた。そして一力へ行かれたと知って、さすがだ、と思った。僕なんか、京都に移住して七年目になるけど、一力など行ったことがない。一生住んでも縁がないだろう、と思うとなんとなく情けない。

 「夏彦先生、また、是非京都に来て下さい。お願いします。「一力」連れてって下さい、というのは冗談ですが、一軒お店というか、京町家を紹介します。「秦家(はたけ)」といいます。」

 以下「秦家」の宣伝である。

 「秦家」は、祇園祭に「太子山」(たいしやま)を出す太子山町(油小路仏光寺下ル〇七五ー三五一ー二五六五)にある。表構えに「奇應丸」の看板が上がっていて、ひときわ目立つ。江戸時代から一二代にわたって続いた、「太子山奇應丸」という漢方薬で知られた老舗である。

 表の店の部分の建設が明治二年。元治元年(一八六四年)の京都大火(どんどん焼け)で京町家の大半は焼けているから、最古の町家のひとつと言っていい。表構えのみならず、随所に洒落た意匠が仕組まれており、京町家の精髄を味わうことができる。京都市登録有形文化財に指定されているのもその意匠の水準の故にである。

 一〇年ほど前に廃業ということになって「秦家」は大きな転機を迎えた。税金、修繕費など町家を維持していくのは大変である。現代生活に合わない面もある。

 「秦家」の隣に一〇階建てのマンションが建つ。実に奇妙な感覚に陥る。どちらに未来があるのか。京都には、今なお数多くの京町家が残るけれど、その運命や如何に。小さな会合で「秦家」に寄せて頂く度に思うのは、その行く末である。

 京町家(木造住宅)を残せ、などというのは不自然だ。消え去るべきものは消え去るのみと、夏彦先生なら言うんじゃないか。「秦家」の空間とお料理を心から味わって頂くのはもちろんであるが、その後で、ひとこと聞いてみたい。

 京都に来てずっと考えているのだけれど、僕にはなかなか答えが見つからない。

 夏彦先生、もう一度は京都へいらして、山鉾町あたりも歩いて下さい。祇園祭の頃は如何ですか。

  

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

木匠塾

布野修司

 藤沢好一(芝浦工大)、安藤正雄(千葉大)の両先生と「木匠塾」(太田邦夫塾頭)なるものを始めて八年になる。第一回は、岐阜県の高根村、当初は「飛騨高山木匠塾」と称した。きっかけは「製品事業所(野麦峠)を買いませんか」という話であった。全国の営林局は伐採のために各地に製品事業所(宿泊所)を持っているけれど使わないものがある。もったいないから、再利用したらということだ。紆余曲折の末、一五〇坪ほどの宿舎を払い下げてもらって村に寄付した。

 「木匠塾」というけれど、大学の夏期合同合宿のようなものだ。集まってわいわいがやがや。森を見たり、家具工場を見学したり、まあ、半分遊びである。最近の学生は、虫が駄目である。また、汲み取り便所が駄目である。いかに、人工的な都会の無菌状態で育っているかがよくわかる。年に一度自然の中で暮らすのも意味あるだろうというのは確信である。

 そのうち、何か創ろう、という話になった。宿舎を直そう、という声も出てきた。いつの間にか八大学を超え、参加者はゆうに一〇〇人を超えるようになった。各大学でアイディアを出してそれを自分たちで造ることが中心になった。僕など「木匠塾」なのに登り釜(正確には蛇釜という)など造った。

  そうしているうちに、東美濃の加子母村(粥川村長)から声がかかった。「うちでもやりませんか」。東濃檜で知られ、産直住宅を手掛ける。伊勢神宮の神宮備林も著名。学生の自主性に任せる、という条件で、拠点が二カ所になった。

 学生たちは、大学対抗のコンペをやってバンガローを造った。また、バス停を直した。かなり大きな物見台も、村の大工さんと協同で作り出した。出来映えは結構すごい。何よりも学生たちが活き活きしている。

 そして、今年、渡辺豊和(京都造形大)さんの仲介で秋田県の角館(高橋町長)を拠点に「東北木匠塾」を始めることになった。去る五月一五日、八戸工大、東北芸術工大、東北工大、東北大、日大工学部などが集まって学生主体に計画を練った。熱気むんむんであった。さらに、奈良県川上村でも「木匠塾」(滋賀県立大学、大阪芸術大学など)が始まる。
08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

建築家と保険

布野修司

 「建築家というのはひどいですね。まるでだめですね。ちょっと申し上げたいけれども、たとえば私が自分のうちをつくったとしますね。クレームがあるとして調停に持ちかけますね。絶対に負けます。こちらも優秀な弁護士を雇いますが駄目です。きっちりと検査する人間がいない。だから曖昧なうちに負ける。建築というのは実に曖昧な世界だ。」

 それはすごい剣幕であった。このところ『建築雑誌』のシリーズ企画で、元日本建築学会長を中心とした長老(名誉会員)先生に話を聞く光栄に浴してきたのであるが、セコムの飯田亮会長の場合は少しく様子が違った。建築界に心底お怒りのようなのである。

 「お金を払う施主の権利はほとんどない。片務契約ですよ。こんなに厚い詳細設計の図面が来て、そのとおりやって、建築家に全部任せているわけです、こちらは素人ですから。ところが空調がうまく動かない、全部結露しちゃう。下にある材料は全部腐ってしまう、という状態でも負けますね。勝てないんです。ですから実のところ日本の建築家なんて全然信用してないですよ。」

 それでもって、アメリカの建築会社を連れてきてやらせたうまくいくとおっしゃる。もしそうだとしたら実に困ったものだ。というより、問題の根は深い。日本の建築の仕組みが問われているのだ。

 阪神・淡路大震災以降、建築界は頭を悩まし続けている。特に建築学会は幾次の提言を重ねてきた。しかし、飯田会長にかかれば「学者なんて評論家にすぎない」と一刀両断である。

 ではどうするばいいか。保険がキーだとおっしゃる。建築家が頼りにならないとしたら保険に頼るしかないではないか。この建築(家)はAランク、これはCランク、それに見合ったコストをかける。施主は自分の判断で保険をかける。建物の安全性は自己責任の問題だ。

 日本の建築家が頼りにならない、と言われて相槌打ったのはいいが、学者も評論家だと言われては、出る幕はない。

 しかし秘かに、建築家をきっちり格付け(レーティング)して保険を賭けるのは悪くないな、などと思う。評論家の評論家たる所以か。

 

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

桟留(サントメ)

布野修司

 桟留とは江戸時代に流行った舶来の縞織物のことだ。唐桟(とうざん)縞ともいう。唐すなわち外国産ということだ。最も人気があったのが縦縞の桟留で、文化文政の「いき」な趣味を代表するとされる(九鬼周造『いきの構造』)。「奥島」ともいって当初は大奥で将軍家が愛好した。オランダの商館長が献上したのがきっかけである。やがて、武士層や富裕な町民層に広まっていったのであろう、浮世絵にも沢山描かれている。基本色は藍、白茶けた赤、白である。いかにも斬新なファッションに思えるではないか。

 何故、桟留かというと、今、南インドのマドラス(ボンベイがムンバイになったようにチェンナイと名を昨年変えた)に居ることと関係がある。桟留とはマドラスのことなのである。正確には現在のマドラスにあるサントメのことだ。驚くべきことに、その地名は聖トーマスから来ているという。説ではない事実である。早速、サントメ教会に行ってみた。何の変哲もない教会がそこにあった。しかし、南インドの一隅に聖者が祀られていて、奇蹟を起こすという話は一三世紀頃からくり返し西欧に伝わっていた。マルコ・ポーロも、現在のマドラス付近に聖トーマスの遺体が安置されていると書いているのである。キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが何故南インドの地名に変身し、近世日本の「粋」文化を飾る木綿縞に転じたのかは、重松伸司著『マドラス物語』(中公新書)をお読み頂きたい。東西の交渉史は実にダイナミックで面白い。オランダは北へ三〇キロ程のプリカットを拠点にしていた。長崎(出島)ーバタヴィアープリカットというネットワークで桟留が日本に供給されていたのである。因みにキャラコというのもインドのカリカットから来ている。

 マドラスの属するタミル・ナドゥ州を中心に話されるタミル語が日本語の起源だという有力な説(大野晋)がある。マドラス大学には日本研究センターが設立されるほどだ。マドラスの各寺院には京都の祇園祭のような山車祭りがある。といった様々な興味でマドラスにやってきた。というと格好がいいのであるが、やってきて見聞きしてはじめてサントメのことを知ったというのが本当のところだ。

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

インド・サラセン様式

布野修司

 再びチェンナイ(マドラス)に戻ってきた。五週間の旅となるといささか長い。毎日が日曜日だが、異国の事物に刺激されて欲張ってつい見に行ったり、食べに行ったりするから休息日がない。疲れが身体の芯に蓄積される感じだ。ぜいたくというべきか。見知らぬ土地を見てその土地のことを学ぶのは無上の歓びである。問題は刺激が多すぎて脳味噌の許容量を情報が溢れてしまうことだ。

 チェンナイではジョージタウンの調査に手をつけた。英国がインドで最初にその拠点を置いたところだ。ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)のせいか。

 ジョージタウンを歩き回っていて日本語の堪能な老人に会った。船乗りで日本に何度も行ったのだという。チェンナイは国際都市だ。彼によると、テルグ語、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

ヴィガン

布野修司

 この夏スペインを訪れたのは、ヴィガンというフィリピンの町(北ルソンの南イロコスの州都)の存在を知ったからであった。実際ヴィガンを訪れて驚いた。煉瓦造の住宅が建ち並ぶ、一見ヨーロッパ風の、世界文化遺産に登録されようかという町なのである。

 フェルナンディナと呼ばれたこの町の名は、4歳にして死んだフェリペ二世の息子に因んでいる。そしてフィリピンという名がそもそもフェリペ二世に由来している。そんな興味に導かれてのスペイン行であった。

 マドリッドの北西、電車で一時間ほどの所にエル・エスコリアルという静かな町がある。フェリペ二世のつくった離宮がある。今年は没後丁度四〇〇年ということで大規模なフェリペ二世展が開かれていた。離宮は驚くべき建築である。スペイン・ルネッサンスを代表する建築であり、その威容を誇るが、異常なほど簡素である。要するに装飾的要素がほとんどない。窓など単に穿たれているだけだ。

 この几帳面な建築をデザインしたのはエレーラといい、トレドのアルカサル、セヴィリアのインディアス古文書館も彼の手になる。エレーラ様式と呼ばれるその美学を支持し、登用したのがフェリペ二世だ。エル・エスコリアルのプランはひとつのマンダラである。正方形の繰り返しの中に理想都市の理念が込められているようにも思える。そして、一九七三年、フェリペ二世は、植民都市の計画原理を示す勅令を出した。

 建築家には評判が悪い。全ての中南米の植民都市を画一的なグリッド・パターンにした原因と考えられているからだ。丁度フェリペ二世が王位を継いだ頃から征服(コンキスタ)は原則として禁止され、本格的な都市建設が開始される。スペイン的な生活様式がストレートに持ち込まれる契機となったのが勅令である。

 勅令が出されたその年(あるいは前年)、スペインはヴィガンに上陸、都市建設を開始する。ヴィガンにフェリペ二世の勅令は届いたに違いない。フェリペ二世の臭いを嗅ぎつけるのが今回の目的だ。しかし、別の臭いも充分嗅いだ。その中に、この町が爆撃を逃れたのは、日本の軍人のおかげであるという話がある。

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

カピス貝の町

布野修司

 フィリピンでは散々であった。フィリピン航空のストライキで足がない。ヴィガンへの四〇〇キロは車をチャーターすることになった。高速道路などないから半日以上かかる。おまけに台風だ。マニラは水浸しである。洪水の中を走って、マニラを抜けるのに二時間もかかる。早朝出発したのに着いたのは深夜である。帰りには橋が流されていて、遠回りする始末だった。

 しかし、それにも関わらずかってのスペインの植民都市ヴィガンへ行ったのは最高であった。ハノイ、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)・・・ヨーロッパ人が造った東南アジアの都市は随分見てきたけれど、こんな街が残されているとは全く知らなかった。ガイドブックに載っていないのが不思議である。世界遺産に登録されてもおかしくない。植民都市として世界文化遺産に登録された都市にスリランカのゴールがある。行ってみたけど、ヴィガンはまさるともおとらない。

 ヨーロッパ風の街並みの中で何よりも興味深いのが障子窓だ。格子の枠は日本より細かい正方形だ。フィリピンに流されたキリシタン大名が伝えたという説があるのも面白い。しかし、白く見えるのは紙ではなくて貝である。カピス貝と呼ばれる貝を薄く剥がして木の格子に挟んである。貝を通して室内に入ってくる光がなんとも優雅である。そのカピス貝の窓が連続した街並みをつくっている。

 ヴィガンではD.キングというすばらしい人にあった。ヴィガンのことは何でも知っている郷土史家である。歳は五〇代前半で若く、普段は食堂を経営しているただのおじさんに見えるけど、心底すごい。英語の本も書いているけれどスペイン語も自由自在である。なにより記憶力がすごい。一緒にヴィガンの町を歩くと喋りっぱなしである。この家は一七四〇年に建てられ、元々誰彼の所有でその後どうなって・・・とまるで生き字引だ。

 そのキング氏がいうには、この町が爆撃されなかったのは、ある日本軍人が八月一五日の撤退直前、広場に巨大な白旗を置いて、爆撃するなと米軍機に知らせたからだという。そして、その裏には、現地のメスチソ女性とその日本軍人との恋物語があったという。

入れる。まるで我が家のようにかってに人の家に入っていく。そしてみんな親しげだ。キング氏が一目置かれているのがよくわかる。家々に入ってみると、まず、その広さに驚く。スペイン風の中庭(パティオ)式住居ではないけれど、たいてい、綺麗に手入れされた裏庭がある。そして家具調度に目を見張らされる。どの家にも代々の家主の肖像画や写真が飾られている。歴史の厚みを否応なく感じさせられる。

 何よりも興味深いのが障子窓だ。格子の枠は細かい正方形だけれど障子にそっくりだ。フィリピンに流されたキリシタン大名が伝えたという説もある。しかし、白く見えるのは紙ではなくて貝である。カピス貝と呼ばれる貝を薄く剥がして木の格子に挟んである。貝を通して室内に入ってくる光がなんとも優雅である。そのカピス貝の窓が街並みをつくっているのである。

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

ダム成金の家

布野修司

 出身だからという縁で、島根県の出雲でいくつかの仕事をさせて頂いている。なかでも「出雲市まちづくり景観賞」「しまね景観賞」の審査は毎年楽しみだ。前者は今年で九回目、後者は六回目になる。毎年出かけていって、故郷各地を見て回る。役得というべきか。

 年々新しい建物ができる。また、年々土木工事が進む。地域の景観を変えるのが公共事業であることがよくわかる。多くの自治体が、この間景観条例をつくり、景観賞という名の顕彰制度を設けたのはバブル経済による「景観破壊」に対する危機感であった。しかし、その主犯は多くの場合公共事業なのである。

 評判が悪いのが、崖面や法面をコンクリートで固める工法である。三面貼りと言われるコンクリートで河岸と河床を固める河川の改修、高速道路や高架鉄道の足桁もそうだ。でも、確実に変化は起こりつつあることもわかる。親自然型、多自然型と呼ばれる河川改修が大流行である。お金をかけて自然を壊して、お金をかけて見かけだけもとに戻す。何をやっているかわからない。

 農村の景観にとっては、耕作放棄が決定的である。人の営みがなければ景観が荒れるのは当然だ。気になるのが山間に突如現れる御殿群である。ダム建設のための移転補償による住宅群だ。あからさまな欲望を表現していて見る方が恥ずかしい。自分の中にもそうした欲望が蠢いているせいか。固定資産税が払えなくて手放したという悲喜劇もある。

 景観賞の応募作にダム成金の家が多いのはうんざりだけれど、今年の一件はひと味違った。自分の住んでいた家をそのまま移したのである。二倍の費用がかかったという。

 正直言って、写真のみの一次審査では何の興味も沸かなかった。たまたま、視察に行く担当になって、百年以上は経ったずいぶん立派な民家だと知った。使われている柱や梁の太さはすごい。今建てようと思っても無理だ。家主の拘りも「一瞬にして了解」である。

 審査会では「古い民家をただ移築した、それだけです」と報告しただけだ。しかし、なんと大賞をとってしまった。僕ももちろん一票投じたけど一寸驚いた。

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

J.シラスのこと

布野修司

 インドネシアに最初に行ったのは一九七九年一月のことだ。そして、その後毎年のように通うきっかけとなったひとりの男に運命的に出会った。

 ある建築家を訪ねてバンドンの研究所へ出かけた時、たまたま居合わせたのが彼だった。ひょろっとして目が鋭いのが印象的だった。彼はカリマンタン(ボルネオ)出身の陸ダヤク族である。ガリガリなところは僕と似ている。まるで兄弟のようだと松山巌さんは評した。とにかく妙に気があって親しくつき合ってきた。というより師事してきたと言った方がいい。一回りも年は違うのだ。スラバヤの彼の下で実に多くのことを学んだ二〇年間である。

 彼はこの二〇年の間に随分有名になった。スラバヤのカンポン改善事業でイスラーム圏のすぐれた建築を顕彰するアガ・カーン賞を受賞するなど数々の賞を手にしている。インドネシアだけでなくアジアの住宅問題、都市問題に関するエキスパートとしてひっぱりだこだ。

 昨年、そうした彼を京都大学の東南アジア研究センターが、半年間、客員教授として招いた。僕が恩返しをする番である。毎週のように研究室に招いた。びっくりしたのは、中国の留学生と和気合々と中国語をしゃべることだ。オランダ語、フランス語もペラペラで語学の天才なのだ。来日するや日本語の学習を始めた。研究室の学生たちが家庭教師だ。六〇歳を超えて猶真摯に学ぶ姿勢に撃たれた。

 半年の滞在期間にインドネシアの都市の未来について英語の本を一冊書いた。朝から夕刻まで規則正しく仕事をしていた。呼ばれたシンポジウムにもきちんとペーパーを書いた。超真面目である。怠惰な我が身を恥じるばかりだった。

 インドネシアはこの一年大変であった。経済危機に政変が続き、後ろ髪を引かれる思いの来日である。研究室の山本直彦がスラバヤに留学していることもあって日々刻々と情報は入ってきていた。随分議論した。離れてかえって冷静に情勢が分析できたのかも知れない。インドネシアで建築・都市計画分野のプロフェッサーは四人しかいない。彼の同僚はハビビ政権の閣僚を勤める。彼は帰国に際して何かを決断したようであった。

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

ジベタリアン

布野修司

 二、三年前からだろうか。もっと前からだろうか。地べたにベターッと座り込む若者の姿が目立つ。膝を抱いて屈み込む姿もあるが、お尻をつけて足を投げ出すのが奇異に映る。一体これは何なんだ。

 満員の地下鉄に乗り込んでいきなり座り込みペチャクチャしゃべり続ける。ただの行儀の悪い連中かと思っていたら、そこら中にそんな若者がいる。この現象が相当広範だ。日常的に接する学生たちもそうだ。教室の前にベターッとしゃがみ込む。廊下を足で塞いで平気である。

 授業(講演)をしていて、一番やりにくいのは私語をされることである。エジプト学者が成人式の講演に招かれ、マナーの悪さに腹を立てた。落語家が寄席で居眠りをした客を追い出した。よくわかる。寝ててくれた方がまだいい。学生の頃、くだらない授業にはぶつくさ文句を言って騒いでいた口であるから、あんまり文句は言わない。しばらく、沈黙するのが効く。それでも一回だけ白墨を投げたことがある。

 最近の学生の態度はさすがの僕でも頭に来ることが多い。ペットボトルの水を飲むのはまだましな方だ。缶ジュースやサンドイッチを持ち込んで平気で食事をなさる。携帯電話が鳴って度々部屋を出入りする。一体これはなんだ。

 そんなにも話が面白くないのかと、こちらにも多少の負い目がある。よその大学の非常勤だったり、不特定の聴衆を相手にする場合だと、遠慮もある。ただ、呆然と佇むのみ、である。

 若い世代にとてつもない何かが起こっている、というのが実感だ。地べたに座る若者のことをジベタリアンというのだとある学生のレポートが教えてくれた。ただ、何故そうするのか教えてくれない。ただ、流行なのだという。

 授業中に食事をするなど論外だけど、時と場所を選ばず何かを口にするのは当たり前のようである。地下鉄の中で弁当を食べる人がいるのだ。これは単にマナーの問題ではないのではないか。文化的基盤が大きく崩壊してきている。地面との接触感が失われてきている。地に足をつけてという地がない。ジベタリアンは、地を失った若者の欠如感の表現ではないのか。

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

 京都に移り住んで七年半になる。身近な町だから色々考えることがある。しかし、どうアクションを起こせばいいか未だにわからない。様々な議論はあり、様々な集団のそれなりの活動はあるけれど全体の仕組みが見えて来ないのである。極端に言うと、議論ばかりで何も変わらないのではないかという気さえしてくる。

 第一にステレオタイプ化された発想の問題がある。景観問題というと、建物の高さのみが争われる。しかし、事後、議論は停止する。開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、議論は二者択一の紋切り型である。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。

 第二に、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックには、京都ホテルや京都駅のようなモニュメンタルな建築物、山鉾町や祇園のようなハイライト地区に議論は集中して、他は常に視野外に置かれる。

 第三に、取組みに持続性がない。学者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希だ。

 ・等々それなりに真剣に考えて、これしかないかな、と思うのが、以下にイメージを示す京都デザインリーグ(仮称)構想である。関係者の皆様、乞うご検討。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などのデザイン系の研究室チームが母胎となる。もちろん、各地からの参加も歓迎である。各チームは、それぞれ地区を担当する。地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 各チームは、年に最低一日、担当地区を歩き一定のフォーマットで記録する。そして、年に一回集い、様々な問題を報告する。以上、一年最低二日、京都について共通の作業をしようというのが骨子だ。もちろん、各地区についてプロジェクト提案を行ってもいい。様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに競えばいい。ただ、持続的に地区を記録することがノルマだ。

 研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。実は、この秘かな構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションでもある。

  

19 ジャングル,  おしまいの頁で,室内,199907

ジャングル

布野修司

 その昔手伝いをした縁で「黒テント」の公演用パンフの原稿を頼まれた。出し物はブレヒトの『都会のジャングル』(下北沢ザ・スズナリ五月二七日~六月六日)で、その舞台、一九一〇年代のシカゴについて書いて欲しいという。

 戯曲は、マレー人材木商シュリンクとガルガという若者の奇妙な闘いを描く。演出の佐藤信によると、現代のイジメの問題にも通ずる。テーマは「ジャングルとしての都会」だ。大都会をジャングルと形容し出したのはこの頃かららしい。

 ところで何故シカゴなのかが僕のテーマである。台本を追うと、全一一場とも、必ずしも具体的な場所ではない。猥雑なスラムやいかがわしい盛り場は出て来ない。ブレヒト自身は背景としてアメリカを選んだだけだという。人間というものは、奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をするものだ、という主題のためにベルリンから距離を置きたのだ。

 芝居が初演された一九二二年、シカゴで近代建築の行方を左右するコンペが開催されている。当時世界最大の日刊紙発行を誇るシカゴ・トリビューン社新社屋のコンペだ。また、一九一九年には人種暴動が起きている。アル・カポネらギャングの跋扈する腐敗と無法の暗黒街は一九二〇年代のシカゴだけれど、一九世紀末のシカゴは、労働運動の中心地であり、既に血なまぐさい事件の絶えない町であった。シカゴは既に大都市の象徴になりつつあったとみていい。当時のシカゴについて俄(にわか)勉強して書いた。

  面白かったのが「チャイナホテル」という場面設定である。また、シュリンクが横浜生まれであることである。さらに、子供の頃「揚子江で手漕ぎ船に乗っていた」などとある。おそらく、チャイニーズ・マレーだと踏んだ。もちろん、当時のシカゴにチャイナタウンは既にあった。ほとんどがサンフランシスコ経由でシカゴに入り、鉄道関係で職を得た。ドイツからの移民も多い。建築家ミースなど亡命者を受け入れたのはこうしたドイツ移民のコミュニティである。ブレヒトがシカゴについて様々な情報を持っていたのは間違いない。当時、シカゴと横浜とベルリンは一人天才的戯曲家の頭の中でとにかくつながっていたのである。

20 大工願望,  おしまいの頁で,室内,199908

大工願望

布野修司

 美山(京都府)の木匠塾に行って来た(六月一八~二〇日)。美山は茅葺き民家が群として残る町だ。今回は塾といっても半ば押しかけで、学生たちが勝手にこんなことやりたいと提案するフォーラムである。新たに福井大学、京都建築専門学校などが参加した。「茅の里サミット」と称して加子母村(岐阜県)の粥川村長も応援に駆けつけて下さった。

 僕が司会をしたシンポジウムは実にレヴェルが高かった。村長、助役、森林組合長、茅葺き職人、林業経営者、各界を代表するパネリストはそれぞれ百戦錬磨であった。内外から多くの人が常に訪れる観光地だ。にも関わらず、一万人の人口が半減して回復しない現実がある。日常的に真剣な議論が積み重ねられているのだ。学生の青臭い提案はまさに児戯に思えたに違いない。

 美山へ行く何日か前、本欄担当の鈴木さんから「大工さんになりたいが一番ということ、職人さんたちはどう思ってるんですか」というファックスを頂いた。ピントこないまま、「天うらら(NHK番組)の影響じゃないか」などと返事した。意識調査にテレビの影響は大きいと直感したのである。主人公は結局二級建築士になってしまったと後で気がついた。

 建築界の就職戦線は厳しい。身近に見ている京都大学の学生も例外ではない。特に女子学生、高学歴(大学院卒)が嫌われている。一時期のデスクワークじゃなきゃいけない、という雰囲気はない。現場でもどこでも、と切羽詰まっている。大工願望が本当であるとすれば、とにかく手に職を!ということであろう。

 僕の研究室はいささか変わっていて、大文(田中文男)さんのところで大工(親方)修行に入った竹村君がいるし、京都の朝原さんのところで左官修業に入った森田君がいる。彼らには先見の明があるのかもしれない。

 しかし、現実は厳しい。大工さん、職人さんの世界が深刻な後継者不足に悩みながら、必ずしも、新たなライバルの新規参入を歓迎しているわけではないのである。木造建築の需要が増えない限り、大工職人が豊かに生きていく条件は生まれない。美山での議論の底にそうしたクールな見方があった。

21 日光,おしまいの頁で,室内,199909

日光

布野修司

 松山巌さんと初めて対談した。『GA(グラス・アーキテクチャー)』誌(旭硝子)の企画で「百年前の一年」という特集を組むことになり、それなら松山さん(巖ちゃん)だ、対談がしたいと申し入れたのである。松山さんには『世紀末の一年』(朝日新聞社、一九八七年、朝日選書として復刻予定)がある。一緒にこの百年を振り返って見たかった。

 というのは半ば口実だ。松山さんとは学生のころからのつき合い。『TAU』という雑誌で知り合った。七〇年代初頭、「コンペイトー」(松山・井出建)と「雛芥子」(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)で勉強会を重ね、「同時代建築研究会」(一九七六年~)でも一緒だった。京都に移ってなかなか会う機会がなく、久々会って話したかったのだ。

 この間松山さんは批評家として大きく飛躍した。江戸川乱歩賞、サントリー学芸賞、伊藤聖賞、読売文学賞という受賞歴がその輝かしい軌跡を示している。小説も今度の『日光』で二作目だ。いささか眩しい。ばたばたと走り回るだけで深く蓄積することのない身を恥じるばかりだ。しかし、それだからそのじっくりした思索の積み重ねはいつも心強い。頼もしい兄貴分だ。

 『日光』は実に傑作だ。様々な物語、事件、イメージが縦横に入れ子状に重ねられるその方法は松山さんに一貫する。『日光』では「人生不可解」と華厳の滝に身を投げた藤村操がハムレットとともにもつれあって登場するが、『世紀末の一年』にも藤村以降自殺者が相継いだ話が書かれている。藤村の生まれ変わりと思しき青年(フランケンシュタイン)に「百年たっても何も変わらない」といった科白を吐かせている。

 対談の枕はその科白であった。「外国人」「女」「公害」「鉄道」「東京」「教育」「マスメディア」「アール・ヌーボー」「アジア」「都市と農村」「戦争」「天皇」と話は一九〇〇年の一年の事件を一月から一二月までを追った。対談というよりインタビューだ。確かに金太郎飴の百年だ。しかし決定的な違いも明らかとなる。主として科学技術の進歩(?)に関わる。対談を終えて痛飲。翌日は心地よい宿酔いであった。(ムンバイにて)。

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

ヴァーラナシ

布野修司

 今夏は、インド、イランをめぐった。ムンバイ、カルカッタの喧噪がまだ耳に残る。強烈だったのは炎のバンダール・アッバースだ。世界史の帰趨を度々握ったホルムズ海峡に昔日のポルトガル要塞を実測しにいったのだが、熱いのなんの摂氏四〇度である。そして、最後がヴァーラナシ(ベナレス)の迷路であった。

 近郊には、釈迦が最初に説教をしたという「初転法輪」の地、サールナート(鹿野苑)がある。仏教伽藍の初期の様子がわかる。しかし、遺跡は遺跡である。法輪寺他、タイ寺院、中国寺院、チベット寺院などが立地して、修行僧の姿は見られたが、一三世紀にはインドから消えた仏教の影は薄い。収穫はアショカ柱の獅子の柱頭を眼の当たりにしたことか。

 もちろん、主目的は街だ。いくつかヒンドゥー都市を歩いてきたが、いよいよその聖地にねらいをつけたのである。

 ヴァーラナシは五重の巡礼路で取り囲まれている。しかし、その秩序は地図を見る限り明快ではない。イスラーム支配が長かったせいだろう、実に入り組んでいる。中心寺院ヴィシュヴァナートの背中合わせにアウラングゼーブ(ムガール帝国第六代皇帝)のモスクがある。イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の鬩(せめ)ぎ合いはここでもすさまじい。

 街は魅力的だ。しかし、汚い。そこら中に牛糞が落ちている。牛がいなければヴェニスだ、と思う。でも、ヴァーラナシはヴァーラナシだ。

 この汚い、という感覚が曲者である。死生観、不浄観が全く異なっている。ガート(火葬場、沐浴場)には死体が置かれている。蠅がたかっているものもある。毎日いくつかの死体が生木で焼かれ、煙がたつ。灰はガンガに流され墓はつくられない。人々はガンガの水で口を濯ぎ身を清める。牛の糞は乾かして燃料にする。

 そうした聖なる秩序を破っているのが迷路を引き裂く車道である。そして、何万とある寺院、聖祠を埋め尽くしてしまった高層住居である。

 半日手漕ぎボートでガンガに遊んだ。滔々たるガンガの流れに悠久の時間を感じたけれど、ガンガからの街の眺めは聖地の名に値しない、と秘かに思った。

 

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

北京の変貌

布野修司

 国際交流基金と日本建築家協会共催の「現代日本建築一九八五-一九九六展」が中国を巡回中で、それに合わせた講演(「日本建築の発展と日本文化」)を外務省から依頼された。『日本当代百名建築師作品選』を中国で出版した(一九九六年)縁である。

 北京、西安、広州を駆け足で回ってきたのだが、建国五〇周年を迎えた中国都市の変貌ぶりには心底驚いた。その象徴が北京随一の繁華街、王府井(ワンフーチン)だ。四年前にはまだ以前の面影が残り、赤いマクドナルドの店が目立つ程度であったが、そこに巨大なショッピング・センターが建っている。今では一体何処の国の街だかわからないほどだ。

 天安門の前を東西に走る長安街の変貌も著しい。中国風の屋根を載せたかってのビル(帝冠様式!)に変わって、石貼りとミラーグラスを組み合わせたポストモダン風のオフィスビルが建ち並ぶ。ほとんどがアメリカ人建築家の手になる。

 伝統的な住居、四合院の残る地区はほぼ消えつつある。旧城内では二カ所が保存地区に指定されているだけだ。「大雑院」と呼ばれる建て詰まった低層の四合院地区が再開発を待っている。

 交通渋滞は相当深刻だ。住宅建設の最前線は郊外へと展開中で車を持つ層が増えている。いくつかモデルルームを訪れて、びっくりしたのは広さだ。一五〇平米が標準で、三〇〇平米を超えるものもある。三人家族でこれだけ必要なのか、と思わず尋ねた程だ。なんと、投機!?のために買う層が多いのだという。中国には、安置工程(四三平米)、安居工程(七〇~八〇平米)、小康住宅(一二〇平米)という区分があるが、政府は昨年末、賃貸住宅を廃止し、住宅建設分野に市場原理を導入することを決定したのだ。その結果が空前の住宅建設ブームである。日本では「億ション」といっていいオートロックの高級住宅が次々に建っている。

 中国では各職場単位毎に住宅が用意され、職住近接が理念とされてきた。大きな職場になると近隣に全てがそろっている。しかし、今後は自ら住宅を取得しなければならない。北京の街の変貌と交通渋滞には、職場と住宅立地をめぐる大きな転換が関わっている。

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

群居

布野修司

 一九八二年、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな集まりが呱々の声をあげた。当初のメンバーは、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和、そして布野修司の四人。その前々年あたりから会合を重ね活動を開始していたのだが、一九八二年の暮れも押し詰まった一二月に至って、『群居』という同人誌の創刊準備号を出すに至った。編集には当初から野辺公一があたり、準備号は当時はまだ珍しいワープロによる手作りの雑誌であった。活字は一六ドットで、ガリ版刷りの趣であった。これからに小さなメディアを予見すると、流行の雑誌の取材を受けたりした。隔世の感がある。

 その『群居』の創刊のことばは次のように言う。「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア「群居」を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」「住宅=町づくり」というのがキーワードであろうか。

 書店に置いてもらったこともあるけれど、諸般の事情で会員制の形におちついた。季刊をうたうけれど年に四号を出すのはきつい。それでも、不定期に号を重ね、四八号をこの九月に出した。来年、二〇〇〇年には五〇号に達する。いささか感慨深い。

 しかし、いつまで出し続けるんだろう、とふと思う。「老いさらばえるまで」と石山は言う。しかし、会員もあり、経費もかかることだからそう簡単ではない。切りがいいから、止めようという意見もある。今後どうするか徹底議論しようと、四九号の企画を兼ねて箱根の山に一晩集まった。湯につかって、久々議論が弾んだ。存続をめぐって激論にもなった。結論は出た、ように思う。後は例によって宿酔いの世界であった。

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