古代中国都城モデルー都市計画における寸法体系ーAncient Chinese Capital ModelsーMeasurement System in Urban Planningー古代中国都城模型ー城市规划的尺寸系统ー,Yang Hongxun International Architectural History Symposium Fuzhou University, 楊鴻勛建筑史学国際学術研討会 中国建築学会建築史学分会,福州大学 2018年5月27日

https://drive.google.com/file/d/1291l43AdAyO7g91mBOyqQ4-xpL8tRGnY/view?usp=drive_link

PP01 古代中国都城モデル‐都市計画における寸法体系‐布野修司

 本論文は、都市計画における寸法の決定方法をめぐって、グリッド・システムに焦点を当てて概観し、特に古代中国の都城について3つのモデルが用いられてきたことを、初めて明らかにしています。

 グリッド・システムとは、碁盤目状・格子状あるいは英語ではチェスボード・パターンといいますが、直交座標によって、道路や街区、施設や宅地の敷地を決めていくシステムのことです。

 都城とは、都(みやこ)の城(しろ)、王権が所在する都市をいいます。英語にすれば、キャピタル、首都という意味です。

PP02 論文の目次

 論文は、1.世界のグリッド・システム で、古今東西に見られるグリッド・システムの具体的な例を概観したうえで、古代中国の3つの都城モデルを順に解明しています。

2.『周礼(しゅらい)』都城モデル とするのは、中国古代の『周礼(しゅらい)』というとされる文献に書かれたモデルで「中国理想都市の原型」とされて様々な図がつくられてきたものですが、記述に矛盾があって決着がついていなかったものです。

3.長安都城モデルは、平安京(京都)のモデルになったとされてよく知られています。しかし、考古学的な発掘データはあるのですが、設計モデルは明らかにされていませんでした。本論文は、その寸法体系を初めて明快に明らかにしています。

4.大元(大都→北京)都城モデルは、今日の北京のもとになった元の大都について、そのモデルを明らかにしています。大都は、クビライ・カーンによって建設されるのですが、「大元」とは、クビライ・カーンが国名を「大元ウルス」としたことによります。『易経』の「大いなるかな乾元(けんげん)」を典拠としたとされ、「乾元」とは天や宇宙あるいはその原理をさします。ウルスとは、モンゴル語で、「国家」「人々」を意味するんだそうです。大都は、明、清の北京になっていくんですが、その寸法体系を解明したのも本論文が最初です。

PP03 著者について

著者の布野修司君は、公共住宅や公共施設の設計計画を行う建築計画学の専攻ですが、自分の研究を振り返る科研費ニュース(2013)によりますと、「都市組織研究」と位置付けているようです。都市をひとつの、あるいは複数の組織体と見なすわけですが、有機体に喩えると,遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなっているとみるわけです。建築物は多数の部品や部材からなるわけですが、それが集まって柱や梁、壁、屋根などの建築要素ができ、それらによって部屋がつくられ、建築例えば住宅が造られる、そして、住宅が集まって、集合住宅となり、あるいは住宅地が造られていく。その構成原理をテーマにするわけです。私(内田)は、若い頃、工業化住宅の設計生産をテーマにビルディング・エレメント論という展開したんですが、著者は、建築から都市まで一貫して構成する建築都市構成理論を考えてきたようです。

PP04 都市組織とハブラーケン

都市組織というのは英語ではアーバン・ファブリックとかアーバン・ティッシュといいますが、私もよく知っているオランダのN.J.ハブラーケンという建築家・研究者も同じようなことを考えていて、中国の都城にも関心持っているようです。

PP05 アジア都市組織研究

 とにかくアジアを歩き回ってフィールド調査をしてきたようでして、沢山の論文と本を書いています。

PP06 アジアの都城とコスモロジー

 第1章ですが、世界中のグリッド都市が概観されていまして、すべて説明すると時間がかかりますし、私自身もそれぞれ細かいことは説明できませんので、アジアについて、ざっと概観して、第2~4章の中国都城を中心に説明します。

 アジアの都城をみますと、都城の理念、計画思想をもつA地域とそれをもたないB地域とに二分されると著者はいいます。

A地域には、2つの中心があっての古代インドA1と古代中国A2がその核になります。それぞれには都城の理念を表す書物『アルタシャーストラ(実理論)』(A1)と『周礼(しゅらい)』考工記(こうこうき)(A2)があります。それぞれのコスモロジー(宇宙観)に基づいて、宇宙のかたちを都城のかたちとして計画しようと考えるのがA地域です。

 B地域は、だいたい西アジアのイスラーム圏ですが、イスラームには、一つの都市を完結した一つの宇宙とみなす考え方はありません。メッカを中心とする都市のネットワークが宇宙(世界)を構成すると考えます。イスラームには、イスラーム固有の都市の理念型を現す書物はありません。

PP07 インド都城と中国都城

インド都城と中国都城の理念型は、正方形で各辺に3門ずつもつなどよく似ていますが、大きな違いはインド都城は中央が神殿で、中国都城は中央が宮殿であることです。古代インドA1と古代中国A2の都城思想は、周辺部に影響を与えます。

古代インドの都城思想の影響を受けたのは東南アジアで、その例となるのがカンボジアのアンコール・トムです。

古代中国の都城思想の影響を受けたのは、朝鮮半島と日本、そして北部ヴェトナムです。

PP08 『周礼』都城モデル 『周礼』

それでは、中国都城の理念型とされてきた2章の『周礼(しゅらい)』都城モデルを説明します。

『周礼』というのは、周王朝(紀元前1046年頃 – 紀元前256年)の官制,行政組織を記した書で,秦の始皇帝の焚書(ふんしょ)で失われて,漢代に編纂されたものが今日に伝わるとされています。『周礼』は,天地春夏秋冬(てんちしゅんかしゅうとう)、すなわち、天官,地官,春官,夏官,秋官,冬官の6巻からなっていて、6人の長官(天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇,冬官大司空)に統帥(とうすい)される役人たちの職務が規定されています。この6官がそれぞれ60,計360の官職からなる政治体制は,周王朝の制度を理想化する中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えます。

PP09 『周礼』都城モデル 『周礼』考工記 「匠人営国」条

そのうちの冬官というのが『周礼』「考工記」といわれるものですが、「考工記」全体は7,000字足らずにすぎないのですが、中国都城について述べた箇所として繰り返し参照されてきたのは「匠人営国(しょうじんえいこく)」条です。国というのは、都市国家すなわち都市を意味します。その内容は次のようです。

「方九里(ほうきゅうり)」:国(都城)は9里四方である。

「旁三門(ぼうさんもん)」:各辺に3つの門がある。

 「国中九経九緯(くにじゅうきゅうけいきゅうい)」:南北(経),東西(緯)それぞれ9条の道路がある。

「経塗九軌(けいときゅうき)」:南北道路の幅(経塗)は車9台分の幅(9軌)である。軌は8尺とされていて、経塗は8×9軌=7丈2(72)尺となるそうです。

「左祖右社(さそゆうしゃ)」:左に宗廟,右に社稷を置く。宗廟というのは歴代皇帝をまつる廟です。社稷というのは、土地の霊、農耕の神様をまつる場所です。現在の北京の故宮にも、宮城に入る前の左右に設けられています。

 「面朝後(后)市(めんちょうこういち)」:宮城は外朝に面し,市は後方に置く。

「市朝一夫(いちちょういちぶ)」:市と朝はそれぞれ広さ一夫(一里四方)である。

PP10 『周礼』都城モデル図

わずかの文言をもとに古来設計図がつくられてきました。代表的なのが宋の時代の「三礼図」の「周王城図」です。概念図といっていいのですが、「九経九緯」を3車線の道路が縦横3本ずつという解釈をしています。

そもそも、方九里というのですから、9×9=81の区画(坊)に分けるのが自然ですが、そうすると道路の数は8本あるいは壁沿いの道路を入れると10本になります。また、「旁三門」ということから、等間隔に門を配置しようとすると、9里を4分する必要があり、すっきりいきません。そもそも、「匠人営国」条はすっきりしないわけです。9でも4でも割り切れるようにするには、公約数の12分割する必要があります。

そこで、実際に図面を描く建築家は困ったと思いますが、それがわかるのがミャンマーのマンダレーの王城図です。19世紀の半ばに設計されるのですが、まさに全体を12分割しています。時のミンドン・ミン王は、自ら、中国皇帝と同格の王であることを任じていました。

PP11 『周礼』都城モデル図

 中国でも、様々なモデル図が描かれてきたのですが、現在、定説となっている最も詳しいモデル図は左の賀業鉅(がぎょうく)(1985,1986)先生によるものです。賀先生は、9里分割を優先するわけです。また、城壁沿いの道を9本のうちに含めています。また、「匠人営国(しょうじんえいこく)」条に書いていないことを加えています。真ん中の王世仁(おうせいじん)(2001)は,賀業鉅(がぎょうく)に従いますが、城壁沿いの道を9本に含めず、中央の道路のみを3車線にしてます。また、「左祖右社(さそゆうしゃ)」「面朝後(后)市(めんちょうこういち)」については、文言通りにとどめています。張蓉(ちょうよう)(2010)は、まず、3分割を優先します。3×3分割(ナイン・スクエア)は、中国伝統の井田制に基づいています。その上で、それぞれの中央に門を設けます。一理あります。

PP12 『周礼』都城モデル図

 そこで、原文に忠実に、各案の納得できるところを取り入れた案を著者は提示します(左図)。これ以上議論しても、結論がでることはないというわけです。それより、オリジナルな提案とするのは、450歩(ぶ)×450歩を単位とする坊の分割案です(右図)。

 9里=300歩×9=2700歩を、6分割すると450歩×450歩という坊が単位になります。12分割すると、その1/4(225歩×225歩)が下位の単位になります。全体を12分割したこの1/4坊(225歩×225歩)を、さらに1/4に分割して、道路幅を考慮して設計図を考えると、10歩×10歩=100平方歩が1畝(む)という面積の単位ですが、丁度10畝×10畝=100畝(む)となります。坊の面積は、これを単位として、100畝×4×4=1600畝となります(左図)。全体は、極めて単純に100畝を単位として設計されていた、というのが著者の主張なんです。

PP13 中国の単位 尺・歩・里・畝

中国の長さの単位の歩(ぶ)は,秦朝、漢王朝では6尺です。そして,300歩が1里です。尺は、時代によって異なりますが、漢1尺=7寸6分(日本:曲尺)=0.230m=商鞅(しょうおう)尺、によって換算すると,漢1里=300歩=約414mとなります。隋唐になると,5尺を1歩とし,360歩を1里とする歩里法(ほりほう)が併用されるようになります。唐1尺(大尺)=0.3030mとすれば,これは日本に伝わったものですが、唐1歩=5尺(大尺)=1.515m,唐1里(大程)=360歩(1800大尺)=1里=545.4mとなります。

360歩を1里とする歩里法は唐以降も使われていきますが,ややこしいことに,元の大都の設計には240歩=1里という歩里法が用いられます。

さらにややこしいのは、歩という長さの単位が面積の単位にも用いられることです。面積の1歩=100歩×1歩=10歩×10歩(100平方歩)なのです。そして、面積については,さらに100平方歩を1畝(む)とする畝制(むせい)が古来用いられてきています。ところが秦の商鞅(しょうおう)の時代以降,240平方歩が1畝とされます。元代において用いられたのは,240歩を1畝とする畝制です。

本論文では大きなテーマにしていませんが、井田制の100畝=100歩×100歩が日本の条里制の1町に等しいということを指摘しています。

PP14 日本の都城

『周礼』都城モデル(中国都城モデルZ)の大きな問題は、実例が考古学的にも発見されていないことです。『周礼』考工記が参照され、その実現が目指されてきたことは歴史的にも分かっていますが、モデルそのものと思える都城はありません。最も近いとされるのは、明、清の北京です。

日本の都城は、中国都城のアイディア(理念)を輸入して建設されますが、平安京にしても、平城京にしても、中央に王宮(御所)が置かれていません。平安京のモデルになったのは北に王宮を置く長安の方だと一般的には考えられています。

そこで中国都城のモデルとして、続いて、長安都城モデルが分析されます。

日本の都城として興味深いのが、飛鳥の藤原京です。当初は「九六城(くろくじょう)」といって、縦の南北が長い平安京と同じプロポーションだと思われていたのですが、その後、さらに広い範囲で大路跡(おおじ)が発見されて、「大藤原京」であったことがわかったのですが、その設計図は『周礼』都城モデルに極めて近いんです。全体は10×10に100分割されていて、城壁沿いの周回道路を除くと、「九経九緯」になります。

また、これも一般には知られていませんが、平城京から長岡京さらに平安京に遷都するにつれて、条坊の宅地分割にシステムが芯々制から内法制に進化していきます。つまり、田舎間と京間の違いと同じですが、宅地(畳)の大きさを同じにしていきます。平安京の坊は4×8=32分割され、四行八門制(しぎょうはちもんせい)と言います。

PP15 3 長安都城モデル 定説と実測値

長安については、日本人の研究者の関心も高く、考古学的な発掘もあって、よくわかっていると考えられています。ただ、建設時の測量の精度の問題もあって、寸法体系は必ずしもはっきりしません。

定説となっている復元案は,南北街路幅は100歩,東西街路幅は、幹線道路(六街)(100歩)を除いて50歩であり,街区(坊)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種からなる、というものですが、実際と合いません(右図)。街路幅もバラバラなんですが、問題は、坊の大きさが実際の方が総じて大きいということです。

そこで著者は、実測図(左図)をもとに寸法体系を考え直します。

PP16 長安都城モデル 基準グリッドとモデルF

 著者が発見したのは、基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されているということです。着目したのは、最初に建設された宮城の大きさが基準になっているということです。

 そこで、単純に基準グリッドをもとに全体の設計図を書きますと、定説とは異なって、街区(坊)には,芯々で500歩×750歩(A),625歩×750歩(B),375歩×750歩(C), 375歩×550歩(D),375歩×450歩(E)の5種があることになります。

 この著者の提案でも、実測値と比較して若干のずれが生じます。それについては、長安の建設が大きく3段階に分けて行われており、その段階のずれα、β、γによって吸収できるという考え方のようです。

 その妥当性の根拠とするのが、坊の分割システムです。

PP17 長安都城モデル 基準グリッドとモデルF

 要するに、坊分割の単位になっているのは、1里=360歩であり、1畝=240歩×1歩と考えると、基準グリッドが250歩×250歩を単位としていることは極めて自然だということです。周回に坊墻(ぼうしょう、坊壁)と環塗(周回道路)の幅を合わせて5歩の幅をとれば240歩四方となるわけです。

方1里(360歩×360歩)の分割を考えると,様々な分割が考えられますが、史資料から各坊は十字街によって4分割されることが分かっていますので,坊を幅10歩の十字街で4分割し,さらに幅5歩の小十字街で4分割すると,80歩×80歩が街区の基本単位となります(坊の1/16)。80歩×80歩を基本単位としたというのが,著者の提起する新たな説で1/16坊=25畝(5×5),1/4坊=100畝,坊=400畝ということになります。

他の大きさの坊も同様に分割されることは容易にわかります。平安京の分割システム(四行八門制)とは異なっています。

PP18 大元都城モデル 

 長安都城モデルは、北方異民族(隋唐王朝は鮮卑拓跋(せんぴたくばつし)氏)による都城モデルと著者は考えているようですが、元の大都も漢民族ではなく、異民族であるモンゴル民族の都城です。

 その都城である大都は、もうひとつの都城モデルになります。

大きな特色は、都城の中心に宮城ではなく、時間を管理する鼓楼・鐘楼が置かれていることです。宮城はかなり南にあります。現在の中南海ですが、水の便を考えたようですが、当初は、テント構造のゲル(パオ)による宮殿でした(左図)。

 そして、明、清の北京は、北部をカットするなど大都を改造して、宮城を中心とする『周礼』都城モデルに近づけようとするわけです(右図)。

PP19 大元都城モデル 

大都については、その大きな寸法体系は分かっていて、全体は18里×20里です。1里=240歩単位で分割されたと考えられますから、480歩×480歩を単位とすれば、全体は9×10に分割されます。

大都がわかりやすいのは、清朝の6代皇帝である乾隆帝による極めて詳細な(1/600)「乾隆京城全図(けんりゅうけいじょうぜんず)」(1750)が残されており、現状から推測が容易だからです。

PP20 大元都城モデル 

大元都城モデルについても、本論文のオリジナルな点は坊分割を具体的に明らかにした点にあります。『周礼』都城モデルとも長安都城モデルと異なったモデルが明らかにされています。

現在の北京全体を見てみますと,基本街区と呼べるような同じような規模の街区があることに気がつきます。いくつか測ってみると,2つの胡同(ふーとん、路地)の間の距離は心々で大体50歩(79.0~77.0m)です。胡同の幅はおよそ6歩で,宅地の南北の幅は44歩ていどです。すっきりしない数字ですが、元の土地制度においては,財産の多い者,あるいは現に官吏として各種官庁に勤務している者を優先し,一戸主当たり8畝の地を与えるとされていた、ということがわかっています。

8畝は、1畝=240(平方)歩=ですから8畝=1920(平方)歩です。平方根は43.82歩で、44歩×44歩の正方形の面積が8畝であり,単位として前提されているのではないか、ということです。胡同の東西長さは440歩で,80畝です。一戸8畝とすると丁度10戸分となる。44歩×44歩の正方形の敷地が10戸で胡同と胡同の間の一街区を形成する,というのが街区の基本モデルとなるという著者のモデルです。

PP21 まとめ

 本論文の内容をまとめますと、 1.建築・都市の寸法体系は世界各地で身体寸法に基づいて決定されてきたこと、そして 2.グリッド・パターンの空間分割システムは古今東西用いられてきたことを概観したうえで、3. アジアの歴史的な都城については地域のコスモロジーをその形態に反映させる地域(中国、インド)とそうではない地域(イスラーム圏)に分かれることを確認します。そして、4. 中国の歴史的都城について本3つのモデルを明らかにした、ということになります。

PP22 中国都城モデル

 著者は、周の時代ではなく、前漢(紀元前206年~8年)から後漢(25~220年)にかけて、儒教国家が成立するとともに「『周礼』都城モデル」が成立したと考えているようです。東洋史学でもほぼ認められているようです。

「『周礼』都城モデル」は、その後一貫して、理念として維持されます。ただ、理念通りに実現するのは現実的には容易ではありません。

それに対して、漢王朝が崩壊して三国時代(魏呉蜀)となり、隋唐長安に至る過程で、北に宮城をおいて南北軸線を強調する「長安都城モデル」がもともと北方異民族であった鮮卑拓跋氏(せんぴたくばつし)によってつくられます。この「長安都城モデル」が日本にもたらされて計画されたのが平安京です。また、13世紀には、モンゴル民族によって「大元都城モデル」が実現します。そして、漢民族王朝である後継の明王朝は、「大元都城モデル」を修正するかたちで「『周礼』都城モデル」を実現します。それが現在の北京というわけです。

 いずれにしましても、寸法体系、面積の単位を基本とする坊(街区)の分割モデルは説得力があります。定説になるのではないかと期待しているところです。

 

コメントを残す

布野修司  Studio Spiral Chronicleをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む