さらば「裸の建築家」ー耐震強度偽造問題に思うー,共同通信,20051226
布野修司
この間の「耐震強度偽装問題」に対して、建築界は、呆然絶句して声がない。あってはならないことが、白日の下にされつつある。しかし、それぞれわが身を振り返って、果たしてありえないことなのか、とりわけ「建築家(建築士)」の沈黙はどういうわけか。
「構造建築士」という存在の社会的地位の低さ、そのモラルの欠如が大々的にクローズアップされたが、「構造建築士」という資格はそもそもない。日本にあるのは、「一級」、「二級」、「木造」の「建築士」資格である。設計および設計管理については、「建築家」(建築士、建築士事務所)に全面的に責任がある。建築主、施工者の利潤追求の論理に対して、第三者として、社会的合理性の基盤の上にすぐれた質の空間をよりゆたかな町並みの形成を目指して設計するのが「建築家」であり、下請けの「構造建築士」のせいにして、口をつぐんでいることは許されることではない。
今回の問題を契機として、「構造建築士」という職能の確立、顕名による透明性の確保が主張されるのは当然のことである。しかし、それ以前に、「建築家」の能力、職能こそ厳しく問われる必要がある。「構造」を理解できなくて「建築家」たり得るのか。阪神淡路大震災に対して露わになった建築界の無責任体制について、『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』という一書を書いたが、事態はまさに「建築家」が「裸の建築家」であることを示しつつあると思えてしかたがない。
利潤追求を専らとする施主、施工者、それと一体化した建築士(設計事務所)の問題は論外である。確信犯であろう。まず問題は、「建築確認」という制度そのもの(許可制ではない)、そして今回クローズアップされた第三者検査機関による「確認」業務の代行システムにある。自治体の多大な事務量を減らすことを口実に、官から民へ、というけれど、実態は、官僚、「建築主事」の天下りの受け皿システムが用意されただけであり、自治体にも検査機関にも検査能力がない。空前のマンションブームの中で、その限界は予め見えており、それがはっきりしたのである。
そもそも、耐震強度1.0というのは最低限守る基準である。それを遵守した上で豊かな空間を作り出すのが「建築家」の役割である。また、基準をクリアすればいい、というものでもない。今回、多くの国民を不安に陥れるのは、強度0.5以下のものの建物に退去命令が出されたことである。その根拠は何か。一九八一年の建築基準法改正で、それ以降は大丈夫というが、その神話が崩れたのが今回の問題であり、それ以前に建物は劣化していく、という厳然たる事実がある。自分の住んでいるマンションは大丈夫なのか、全ての国民が不安に思うのは無理はない。
「建築家」は、この不安に答えるべきである。現行のシステムにおいて「裸の建築家」に全責任を取ることはおそらくできない。だとすると、どうしても保険によって、万が一の場合に備えるしかない。これは、ユーザー(マンション購入者、建主)も同様である。絶対安全な建造物がありえないとしたら、自己責任において保険をかけるしかない。また、地震があっても、決して死者を出さない仕組み、耐震診断、耐震補強も含めて、「建築家」の役割は大きい。それとも、「建築家」は、またしても、この大騒動が過ぎ去るのをじっと待つだけなのだろうか。








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