日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)

建築計画委員会報告「建築年年報2008」建築雑誌200809

2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告

建築計画委員会

台湾において「台湾版まちづくり」ともいうべき「社区総体営造」が開始(1994年)されて14年になる。その帰趨を問い、まちづくりが抱える問題を着き合わせる議論を行う研究集会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」を6月6~8日台北―台中で開催した。また、この開催に先駆けて台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催による国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、6月5日)が開催された。合わせて以下に報告したい。2つの企画と視察のプログラムを立てて組織頂いたのは、黄蘭翔先生(台湾大学芸術史研究所)と研究室の若い学生、院生のみなさんである。

日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)

 台湾大学芸術史研究所所長・謝明良先生の開会の辞(通訳:宗田昌人)で始まったシンポジウムは、9:30から18:00までたっぷり行われた。プログラムは以下の通り。

9:30-11:30 「淡路震災とその後の街づくり」―台湾921大震災との比較― 講演:小林郁雄。コメント:喩肇青(中原大学)/12:20-14:20:「日本の街づくりのこれからの課題」講演:宇野求。コメント:曾旭正(台南芸術大学)/14:30-16:30 「日本におけるタウンアーキテクトの可能性」講演:布野修司。コメント:黄聲遠(建築家)/16:30-18:00:総合討論、夏鑄九(城郷與建築研究所)、布野修司。

テーマは、阪神淡路大震災の震災復興まちづくりとコミュニティ・アーキテクト(地域建築師)。ちぐはぐなようにも見えるがそうではない。地域をベースにした日本のまちづくりが本格的に始まるのは1995年の阪神淡路大震災以降である。ヴォランティアの出現、NPOの法制化がその方向を示している。一方、台湾で社区総体営造が開始されるのは1994年のことである。そして、921集集大地震(1998年)を経験している。震災復興については、相互に経験を交流してきた。折しも、中国四川大地震が起こった直後である。議論が熱の籠もったものとなった。小林郁雄先生の復興まちづくり、宇野求先生の日本橋でのまちづくりは、日本のコミュニティ・アーキテクトの原型である。その活動台湾の聴衆を大いに刺激したように思う。台湾の自治体や建築家の取り組みにも同じような流れがあり、共感するところが多かった。とりわけ、若手建築家、黄聲遠さんの宜欄での活動はまさにタウンアーキテクトの仕事と呼びうるものであった。現地に住み込み、現場で考え、自らの手作りでまちづくりを続ける黄聲遠とその仲間たちの活動は台湾で大きな関心を集めている。建築、都市計画分野における台湾屈指の理論家、夏鑄九の総括も含めて相互に多くを学ぶことが出来たように思う。黄蘭翔先生(台湾大学芸術史研究所)のオルガナイズが見事であった。また、伊東豊雄の台中オペラハウスの設計を協働する、京都大学布野研究室出身の張瑞娟さんと夏鑄九研究室の博士後期課程に在籍する宗田昌人さんのすばらしい通訳に感謝したい。

 「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」

春季学術研究会のプログラムは以下の通りであった。司会を山根周先生(滋賀県立大学)が勤め、台湾大学城郷與建築研究所の博士課程に留学中の五十嵐祐紀子さんに通訳をお願いした。

「社区総体営造の現状と課題」講師:社区営造学会、陳其南(国立台北芸術大学教授・元文化建設委員会主任)、「台湾現代建築の動向—李祖源、姚仁喜、謝英俊三人建築家を例として—」 講師:阮慶岳(実践大学副教授・建築評論家)、「店屋の保存と再生」講師:徐裕健(華梵大学教授・建築家)

 陳其南先生は社区総体営造の仕掛人である。阮慶岳先生は小説家でもあり(邦訳もある)、若手の建築評論家である。徐裕健先生は、老街の再生に取組む。黄蘭翔先生のすばらしい人選であった。短い時間であったが、台湾における新たな動きとその背景を実によく理解することが出来た。

 続いて、懇親会を開いたが、今年も国士舘からの18名を含めて多くの学生の参加があった。全く意図しなかったことであるが、若い学生たちの眼をアジアに開くいい機会になっている。参加者は58名、日本を離れて、議論をするのはいつも新鮮である。(布野修司、建築計画委員会委員長)

 台北視察

大会2日目(6月7日)は台北の現代建築や歴史的建築、下町の視察見学ツアーを行った。大陸工程ビル→台北101→中山公会堂(昼食) →板橋林家邸宅と庭園→台北廸化街→台北保安宮の順にバス2台を貸し切って巡回した。また、全体を通して、現地ガイドによる解説を前出の五十嵐祐紀子さん、張瑞娟さんに通訳して頂いた。

 大陸工程ビルは台北市民生東路と復興北路の交差点に位置する1999年竣工のオフィスビルである。設計は姚仁喜(大元建築及設計事務所主宰)。Exoskelton(外骨格)という構造設計手法による外観と、それによって可能となる内部の26m×26mの無柱空間が特徴的である。内装、照明に至るまで計画された、現代建築として質の高いものであった。

 台北101は台北市信義計画區の南部、台北世界貿易センターに隣接する李祖原設計の101階建ての超高層ビルである。現在、世界一の高さの「使用中」のビルである(現在ドバイに建設中のビルが、完成はしていないものの、最早この高さを凌いでいる)。最先端の構造システムが用いられており、世界最大の揺動式チューンド・マス・ダンパーなどによって、ビルの安全・安定・快適性が保証されている。構造体の大部分を内部に納め、ガラス壁に7度の傾斜をもたせることで得られる鳥瞰的な視界は圧巻。また、地上から見上げた時にはこの傾斜ガラス壁に押し潰されそうな迫力があった。

 台北市中心の延平南路に位置する中山公会堂は、辰野金吾に師事し台湾建築学会を創設した井出薫によって日本統治時代に建てられた。建築的には折衷主義であり、平面の対称性や正面の破風のような表現に見られる様式建築的なものと、水平線や垂直線の多用などの現代的な影響も見られる。このような歴史的建築空間の雰囲気を感じながらの食事は全体に少し緊張感があり、新鮮な体験となった。

 林本源園邸は林本源一家により1893年に造園された歴史的名園で、台湾に現存する最も完全な園林建築である。現在の総面積は6054坪(全盛時は17311坪)あり、戯台など多くの建物、東屋が設けられている。これは中国庭園の伝統を受け継いだものであるが、三角形、平行四辺形の建物などやりたい放題の印象である。造りこまれた多数の戯台は、多様な空間を創り出しており、台湾人の演劇好きの表れでもある。台北市は都市化している中にもこのように、文化遺産が残り、独特の雰囲気を帯びている場所が諸所に存在する。

 廸化街は1850年に建設され、全長約800m、各地の特産品、茶葉、漢方、布などが集まる商業地区である。特徴としては、街路の幅が狭く、廟が地区の中心となっていて、建物の大部分が間口の狭い連棟式ショップハウスで、建築形式は、閩南式・洋楼式・バロック式・モダニズム式の4種類に分類される。 街を歩くと、時折取り壊されたショップハウスがあり、隣家に以前そこにあった家の痕跡が刻まれていたり、家と家の間が境界を示すように色分けされていたりと、生々しい生活の一部が伝わってきた。

 台北保安宮は淡水河と基隆河の合流点に位置し、龍山寺、清水巌祖師廟と並び台北の三大廟と称せられる。建築形式としては、前殿、正殿、後殿という清朝末期の典型である三殿式である。ここでは多くの人々がお祈りをしており、線香の煙が立ち込めていた。神聖でありながら、活気のある様相を呈しており、精微で色彩豊かな装飾や彫刻からは台湾の文化が伝わってきた。

台北はとても湿度が高く、ゴキブリが大きく、南国気候だった。歴史的街並みと建造物、そしてそのすぐ背後にある都市化した市街地との、対比が印象的だった。日本統治期の建物や古い街並みが保存されながら、活気に満ち溢れていた。(鮫島拓、滋賀県立大学大学院) 

南投県視察

3日目(6月8日)は自由参加のバスツアーによる南投県視察。南投県は台湾中部に位置し、面積71.2k㎡、人口およそ105,000人の台湾で唯一の内陸県である。今回の研究集会で焦点となった「社区総体営造―台湾まちづくり」がどのようなものであったか、1999年集集地震からの復興まちづくりの各事例を見学した。参加者は先生方や学生ら35名、またここでも通訳として五十嵐さんと宋田さんにお世話になった。そして、このツアーのコーディネートをして頂いたのは台湾大学の学生である。彼らには大いに感謝したい。

 南投県へは、まず2007年1月に開通した台湾高速鉄道(新幹線)にて台中へ向かう。この台湾版新幹線は、台北と南の都市・高雄を最速96分でつなぐというから驚きだ。建築家・伊東豊雄による話題の「台中メトロポリタンオペラハウス」や「高雄スタジアム」が進行プロジェクトとして挙げられるが、南へのアクセスが大分楽になったようだ。台中へはものの1時間、ここからがバスでの見学ツアーのはじまりである。

台中県霧峰郷林家屋敷(地震後の再建)(文化財)は、18世紀中ごろ大陸より渡り一代を築いた台湾屈指の旧家である。古蹟文物(文化財)として指定されており総面積およそ3haという。19世紀後半に建てられた邸宅群は、1945年日本敗戦後、国民党によって破壊され、1990年からようやく母屋を中心とした最も古い建物群を対象にした第一期復元工事が行われ99年にほぼ完成を向かえた。その矢先、大地震に見舞われ建物群は全壊した。震災復興にあたり、日本のまちづくりや文化財保全などの観点からも多く議論された。手前に客人を迎える空間、奥には居住空間がある。大花廳は1890-1894年頃に建てられた、公的な空間の舞台である。「三落大宅院式」という建築形態をとるが、三落(三進)の建物というのは、主屋が中庭(埕・院)をはさんで街路側から一進、二進・・・と展開していく形式をいう。この舞台は、特徴的で第二進と第三進の間の中庭に設けられている。結婚式や劇などに使われ、舞台を囲む三方が観覧席となる。再建時には、地震が来ても壊れないようにとRCで基礎を打つなど工夫をしていた。また、材料については高雄のレンガや地元のヒノキなどを使った。住居部分は現在も復元中であったが、現場に入らせていただいた。住宅内の欄間や戸には木の彫刻細工が施されていたが、元のまま残っている部分と新たに継ぎ足した部分が木の色味からみてとれた。伝統的な職人技術の継承が困難になっている中で、当時の繊細な彫刻を残していく意味は大きい。

邵族は、10数余の台湾原住民のうちのひとつであり、山間部に位置する台湾最大の淡水湖、日月潭沿いに居住している。邵族はかつて半農半漁で生計を立てていたが、日拠時代や国民党時代を経て居住地移転や漢化政策による生活困窮など、徐々に離散していった。そこにきて1999年集集大地震が起き、震源地から10kmほどの日月潭は壊滅的な被害を受けた。邵族の住居も80%が全半壊した。建築家・謝英俊は「部族コミュニティ再生」を基本方針に、震災復興住宅を計画した(邵(サオ)族(台湾原住民)の復興村)。邵族にとって重要な伝統的に行われている祭事のために、広場を計画、また住棟を対面配置とし前面にもちょっとした広場的な空間をはさんでいる。また、軒を深めに出すことで、半屋外の軒下空間が隣近所との相互交流を生むきっかけとなっている。一方、構造はというと軽量鉄骨のフレームをベースとし、セルフビルドで行われた。さらに地場の竹が壁の仕上げに施され、伝統的な住宅の雰囲気が継承されている。現在では、集落再建で離散した邵族が戻ってきたことや、紅茶や胡蝶蘭などの観光資源が見直されてきたことなどを含め、地域が震災を契機に大きく変わったといえる。復興住宅再建と共に集落のコミュニティが生まれたり、少数民族の伝統的なスタイルが継承されたりしていく様は、今一度わたしたちがまちづくりを考える上での重要な視点になりえる。

南投県信義郷潭南小学校は女性建築家・姜楽静の設計である。伝統的な家屋が設計の発想であり、学校を「家」のように捉えていた。敷地が45m×70mと普通の1/3程度しかないため、建物を敷地に対して真ん中に据え、運動が大好きという子供たちの声で建物の周りがトラックとなっている。山がちな地形のため地震によって崖崩れが起きた部分は、地下の空間に転換された。2階の教室群の廻りは全て回遊可能で、半屋外空間が全体的に多くとられている。現在80人の子供たちが通っているが、原住民の伝統的な文化を学ぶ取組が近年になってようやくなされている。

 台湾は、もともと地形や土壌、気候上お茶の栽培が適している。小葉のウーロンや大葉のアッサムまで数多くの種類の茶葉が生産できる。日月老茶場(村おこしの事例産業)では店舗や飲食店を併せ持つ茶葉の工場を見学した。茶葉の香りがたちこめており、茶葉製造に一連の流れを想像しながらみてまわった。倉庫のような外観とは対照的に現代的な店舗空間、2階に上がると食事ができるスペースになっている。屋根は木造架構をむきだしにしているため開放感があり、さらに一部透明ガラスで天窓が設けられ植栽が植えられており、全体的に明るい印象を受けた。

 1995年1月阪神淡路大震災で大きな被害を受けた地域の一つ、神戸市長田区に同年建てられた坂茂設計による仮設の教会兼集会場があった。10m×15mの平面に58本の紙管が楕円状に並び外周をサッシュで覆っている。紙管パイプは長さ5m、直径220mm、厚さ15mmでできておりこれらが構造体となって空間を構成している。それが2005年、台湾南投県埔里鎮桃米村に多くのボランティアの協力の下移設された(南投県埔里鎮新故郷文教基金会(ペイパードーム))。夕暮れ時だったため、ポリカーボネートで外周を囲まれたペイパードームはあたたかな光を放つ発光体となっていた。のどかな山や田畑の風景に妙に合った素敵な空間である。内部空間は紙管パイプが徐々にそのスパンを変えながら楕円形を形作っている。このはるばる日本からやってきたペイパードームがまちづくりの拠点となって、今後も展開されていく” 食之坊”や” 工之坊”などと共にまちを活気付けていければと思う。

6月8日は、農暦5月5日で、この日は「端午の節句」子供の日であった。台湾では都会に出た者も田舎へ帰り、家族でお祝いし、粽(チマキ)を食べることが習慣である。今回、視察のラストは粽を中心としたおもてなしをして頂いた。20種類近く存在するという”蛙”を観光資源としているこの地域ということで、蛙の様々なトーンの鳴声がわたしたちを迎えてくれた。外で笹の葉に包まれた粽を頬張り、1日を振り返る。ほどよい疲れの中で、それぞれが様々なことを思い、考えさせられ、復興から蘇った三者三様の地域のエネルギーを感じたのではないか。(美和絵里奈、滋賀県立大学大学院)

コメントを残す

布野修司  Studio Spiral Chronicleをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む