建築論へのディアレクティーク 『建築文化』特集「文化としての住居 原広司・作品と思想1970ー1979」 197912







制度と空間をめぐって
布野修司
〈建築〉の現在をどう捉えるか,それ自体は極めて大きな問題なのですが,原さんの,例えば「住居に都市を埋蔵する」という極めて魅力的な言い方に示される方法意識の背後には,「住宅の設計は最後の砦である」といった状況認識がそれなりに前提されていると思います。距離を置いてみれば, 60年代の初頭に,一斉に都市づいていった建築家が,やがて都市からの撤退を強られながら行き着いた一つの位相を原さんが象徴していると見ることができます。おそらく,そうした状況認識は,とりわけ,多くの若い世代によって共有化されていると言っていいと思います。「芸術」か「うさぎ小屋」か,という幾分乱暴だけれども明快な軸を提出したのは堀川勉さんですが,それを包摂する「国家と建築」という軸があって,所詮,近代日本の建築はそうした枠の中でのみ展開してきたのではないか。そして,そうした建築を支える構造は,ますます強固になりつつあるのではないかという感じがそこにはあります。建築あるいは建築家の概念が決定的に変質,解体していく中で,ものの生産,流通,消費を支える構造,制度をはじめとして,建築界のあらゆる局面で,どうしようもなく階層分化,構造化が進んでいると思えるわけです。
そうした状況において,住宅の設計なら設計を最後の砦として,あるいはむしろ最初の砦として捉え直すとき,何ができるか,というのが原さんの現在の問題意識であり,「芸術」か「うさぎ小屋」かといった平面を無化したところに原さんはその戦線を構えようとしているように見えます。「文化としての空間」,「ものからの反撃」という言い方が示すように,それは,ものとことば,あるいは建築の世界と知の領域をめぐって
仮構されているように思えるのですが,その戦略は,興味深いことに,単に建築をインタージャンルに開いていく,あるいはアートや文化の領域に土俵をづらしていくこととは少しく位相を異にしているように思われます。
原さんには,BE論,有孔体論以降空間概念論,住居集合論,AC論等のこれまでの作業とその一貫性,また原さん自身の軌跡をめぐって,多くの質問が用意されねばならないのでしょうが,ここでは,これからの
〈建築〉の行方を占ううえでも,現在の原さんの戦略をめぐって以上のささやかな脈絡において,以下のような質問をしたいと思います。
- 「ものからの反撃」とは具体的にはどのようなイメージなのか。ものの世界とことばの世界の関係は,原さんのうちでどのように捉えられようとしているのか。知の領域での作業へのインパクトは,どういうレベルで,またどういう回路でありうるのか。
- 知の制度(例えば,構造主義的知。あるいは00サロンという形での囲われた知。 あらゆる知のあり様はそれを免れえないと思われるが……)自体(あるいは制度としての文化)についてはどう考えるか。
- 原さんにとって「国家」とは何か。また,具体的にもののあり方を規定している制度,その生産,流通を支える制度についてどう思うか。
- 空間あるいは空間的想像力といった概念は,われわれにとってある意味では親しいものであるが,その有効性について(とくに知的戦線における共通言語の問題として,例えばM.フーコーの空間,言語と空間等をめぐって)どう考えるか。
- 集団あるいは運動といった概念について,どう考えるか。
蛇足ながら,以上の質問で,推測されますように,小生としては,制度と空間をめぐって,一方では,〈建築〉の現在をそれなりの時空の拡がり(例えば時間軸としての「昭和」,空間軸としての「亜細亜」)の中で捉え続けながら,作業をしていきたいと思っております。しばらくは,集団なり運動といった概念にも係わることになると思います。質問は要領をえないかもしれませんが,幾つかについて答えていただければと思います。
原広司
たいへんな難問であり,あなたの意にそうような対話が,ここから始まるかどうか心配ですが,できるだけうまく語ってみたいと思います。問いかけを,せっかく整理して下さったのですが,おっしゃるとおり問いは相関していますので,短文で答えさせていただきます。
難問だと申しますのは,まず,あなたの問いかけのなかに隠されている真の問いを,私が,それなりに判読できるからです。それを,私自身の解釈で,はじめにストレートに表面に出してしまいたいと思います。つまり,端的には,知の領域での言説が,強固に武装された現実に係わってゆく回路を示せということではないでしょうか。
この問いかけは,あなたが配慮して下さったとおり,とくに私にとって難しいのです。もし,私が,住民運動に参加したり,なにか具体的に社会にコミットするような運動をやっているなら,こうした問いは容易なのです。しかし,私は現実の社会の制度的なものには係わってゆこうとしない。むしろ,そうしたものから離れて立つ構えを見せる。そこで当然ながら,現実への回路が問われるわけです。
多分,読んで下さったのではないかと思いますが,『展望』に書きました集落への旅という文章で, 〈一枚のスケッチ〉というイメージを出しました。これは,具体的なものによって,現実へ働きかけるまでに至る時間的な遠さを表現したつもりです。そして,「均質空間論」で,強固で支配的な空間の所在を示したつもりです。ここから,私の生き方のスタイルが出てきます。一言でいえば,経済を主軸に編成された現実に,直接的にコミットせず,むしろそうした大きな状況を避けて,全く位相がはずれた場で局所的に充実した世界をつくろうというスタイルです。
したがって,基本的に,大きな社会的機構,あるいは制度そのものに係わってゆく回路は,いまのところまったく切断されているとしか言いようがない。具体的なもののあり方を規定している制度,その生産,流通を支える制度,すべて気にはなります。しかし,そこヘ係わっていって反応があるでしょうか。それより,面白いでしょうか。熱意を持続させるだけの面白さがあるでしょうか。それより,微小ながら,魅力ある領域を,巨大なるものから離れて,つくるほうがより面白いし,責任がもてる。その微小なる領域のひとつに,知の領域があるのではないでしょうか。
そうして,本題にもどるわけですが,知の領域へのインパクトということですが,まず最初に,建築という分野が,これまでに知の領域の部分たりえたかという疑問があります。もちろん,重要な部分であることは当り前なのですが,知の領域は,思想の場のうえにしめる領域でしかない。つまり,知は思想の枠組から出ることはない。なぜなら,知を価値と分離するなら,もはや知とはいえず,それらは素材としての知識に還元されてしまうからです。となると,私たちの領域を,知の領域の有力な部分として位置づけるに十分な蓄積があるかは疑わしい。知の分担者が,彼自身社会にたいして説得力ある態度をとりえたかどうか, どれだけ己れを殺し儀牲をはらい,その行為を正当化しえたか等々の行為をとおして,あるいは思想をとおして,はじめて知の領域は形成されるのです。私たちの領域で興奮していても,一歩他分野に出れば,それは奇妙な出来事のひとつにしか思われていないということは実際にありうるわけです。そんなことなら,あらためて知の領域を云々する必要はあるまいというのが大方の,そしてこれまでの私たち建築家の態度だったのではないでしょうか。そんな状態ですから,しかし,私が関心を払っている現在の建築家仲間の活動は,本来なら十分に知の領域に位置づけられて然るべきだと考えておりますから,まず, 「ものからの反撃」のような表現活動をやってみるわけです。これは, ものではなくことばです。しかし,ものを注視している人間のことばです。ものが誘起したことばでありたい。もしそうでなかったら,おびただしい文字の氾濫のなかで,拙い文章になんの意味があるでしょう。たとえば, M.フーコーの力ありて, 知の領域において,空間が可視的になってきました。ものからの反撃の確かなる一例なのです。構造なる概念は,あるいは方法は,実に,空間を語る側に有利な潮流をつくりました。まさに知の領域は,空間的想像力が係わる場ともなってきたわけです。構造ということばの静的な部分は,空間とほとんど同義なのです。それを,フーコーはたいへんよく捉えた。しかし,構造だけではありません。現象学にせよ,記号論にせよ,空間の知ともいえる性格がたいへん強い。私には,次のような予想があります。建築の領域は,さまざまに分極する。おおまかに言えば,ひとつは,経済活動としての分野であり,他のひとつは,表現に関心をはらう分野である。後者の分野の集団のひとつは,知の領域に活路を開くであろうと。
そこで,あなたのおっしゃる知の制度が問題になってきます。ただ,先程も言いましたように,知を思想の場のうえに置きます。だから,はたして制度たりうるかどうかに疑問があります。ただ,知の制度といったことばのひびきが,なんとなく意味をもちそうな今日の思想的状況がある。知の対象化がおこり,思想の危機をあらわしています。ですから,ここで,たがいにきびしく問いあえば差異だけが浮上し,不必要な破綻をまねくだけです。緩和が必要ではないでしょうか。その背後には,比較にならないほど強力な制度があるだけに,文化に係わる小さな集団は大切にしなくてはなりません。ただし,いかなる集団であれ,その集団があるべき姿を,個人ないしは成員の部分集合の活動によって示すという原理はつねに保存されて然るべきです。運動が意味するところも変わってきました。現実的にいって,今日では,ごく小さな集団が己れの充実した領域をつくる以外に道はないでしょう。そうした小集団が,排他的でなく,連結性を用意することに期待します。
さて,国家についてですが,これもひとつの集団ですが,そこでの意味ある部分とは,避けることができない指令を発信する部分です。その発信部分において,国家は規定されます。発信部分に係わらない限り,人と国家は重ならないでしょう。
あわただしくなりますが,私にむけられた問いかけは,むしろあなたのほうが,より確実に答えられると思っています。私が,ここで述べたようなことどもは,おそらく,あなたによって,のり越えられるだろうと考えています。
制度と空間の関連性については,まだまだ研究を要します。第一に,空間を表示する手法の開発が要請されていますし,第二に,制度そのものにたいする研究は,私たちに直接できるかどうかはたいへん怪しい。そこで,まず,空間の側をかためて,知の領域に問うてみるという手続きをとらざるをえないように,私には思われます。この予測があるものですから,私は積極的に,知の領域に出てゆくことを願ってもいるわけです。そうした姿勢があるから,他分野の方々も,私の発言に,多少なりとも耳を貸して下さるのではないかと思っています。
あなたも,是非そのあたりの研究の蓄積をはかって下さい。あなたの方針は,私の構想よりアクチュアルです。ことばに還元しきれない体系を蓄積し,それを背景に,言説を展開することを心がけるべきでしょう。なぜなら,空間の研究においては,ともすればことばは霧散しがちだからです。

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